稲葉光春

テオレマの稲葉光春のレビュー・感想・評価

テオレマ(1968年製作の映画)
4.8
ドゥルーズによれば、パゾリーニおいて、相互作用しながらも全く異なる二つの数学的審級があるという。「定理」と「問題」である。「問題」は「定理」の中にあり、「定理」に生気を与えるが、それは「定理」から区別される(構成主義が公理論から区別されるように)。なぜなら、「定理」は原因から結果まで内的に完結するものだが、「問題」とは「外部」を介入させるからである。
ドゥルーズは、『テオレマ』において、このような偶然的な「外部」が、閉じられたシステムに投影されている様子を見てとる。これにより定理=内的関係は、外部=全体性を獲得するのである。

「外部からの使者は、そこから家族の全員が一つの決定的な出来事や情動を経験し、問題の一例を、あるいは超空間的な形象の断面を構成するような審級なのである。それぞれの場合、それぞれの断面が、ミイラ、麻痺した娘、愛欲の追求において凍り付いてしまった母親、目隠しして自分の画布の上に小便する息子、神秘的な空中浮遊の虜になってしまった女中、動物となって自然に帰る父親として考察される。彼らに生命を吹き込むのは、ある外部の投影であると言う事実であり、これによって彼らは、円錐の投影または変身として互いに浸透しあうのだ。反対に『ソドムの市』においては、もう問題が存在しない。外部が存在しないからである。パゾリーニは生けるファシズムなどを映画化しているのではなく、小さな村に閉じ込められ、純粋な内面性にまで縮小され、追い詰められたファシズムを映画化しているのだが、それはサドの証明が展開される監禁の状況に一致する。『ソドムの市』とは、パゾリーニが望んだ通りに、純粋な死せる定理、死の定理であり、一方『テオレマ』は、生ける問題である。だからこそパゾリーニは『テオレマ』において一つの問題を喚起することに執着したのであって、それに向かって全てが収束するのだ。思考のいつも外部にある点、任意の点、映画のライトモチーフにむかうように。「私は答えることのできない問題に取りつかれている」。思考を知に、あるいは思考に欠けている確信に引き戻すどころか、問題的な演繹は思考の中に思考されないものを注ぎ込む。それは思考をあらゆる内面性から引き離し、その中に一つの外部を、その実質を蝕む還元しがたい裏面を穿つからである、思考は一つの知のあらゆる内面性の外に、一つの「信頼」の外部性によってつれだされるのだ。」(ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』法政大学出版局、2006、p245)
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