ーcoyolyー

メアリーの総てのーcoyolyーのネタバレレビュー・内容・結末

メアリーの総て(2017年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

「メアリーの総て」を録画もしてあるんだけど面倒なのでWOWOWオンデマンドで観ました。これ、序盤の方で主人公が父に「Immitate」と言われてるシーンあるんだけど、作品自体の感想もImmitateだなと。
この映画、監督がサウジアラビア出身の女性監督で、私その彼女をフィーチャーした記事で存在知ったんですけど、完全に西洋文化の埒外の人でしょう、だから徹底的にジェーン・オースティンものやブロンテ姉妹ものから始まって英国のこの辺までの映画を学んだのは伝わるんです、すごく真面目な人なのも伝わるんです、けど決してこの監督がこの文化のネイティヴではないことも伝わってしまうんです。
細かいところでちょっと指摘しますと、メアリーと恋人が教会にいるシーン、最後に聖母マリアのカットが挿入されてて、メアリーだからマリアを挿入するのはわかるんだけど、聖母マリア像があるということはその教会はカトリック教会なんですよ。イギリス人が英国国教会じゃなくてカトリック教会にいるって、ちょっと特別な意味が出てしまうんだけど、その意味に関しては特に何も描かれずメアリーとマリアのオーバーラップしかしてない、みたいな惜しい隔靴掻痒感、これがずっと続く。
これ、作り手が周りの様子伺って遠慮してるんだと思うんですよ。いや私はこれをやりたい、っていうのを作品内ではエル・ファニングが散々主張しているのに、この映画の監督はひっこめちゃってる。せっかくエル・ファニング起用してるんだからもっとやれるはずなんですよ、文学少女でフェミニズム要素あってそれを託されてるのがエル・ファニングだよ、私にもっと刺さるはずなんだよ本来なら、でもこれ上っ面だけで通り過ぎちゃう。
この監督、もっと主張できるはずで主張するべきものも持ってるような気はするんだけど、今作ではそれが出来てなくて歯痒い。何を言いたいか、より周囲の反応見て私間違ってない?文法これでいい?こんな感じで大丈夫?ってそれしかやってない。でも、サウジアラビア出身の40そこそこの駆け出しの女性監督が西洋資本でイギリスの時代劇撮るとなった時に「自分はこうやりたい」と主張する困難さを考えると責められないとも思うんです。
作品内で主人公は同じような困難に歯向かうんだけど、彼女は歯向かえない、その哀しみの滲みが漂っているようなフィルムで、エル・ファニングが実現していることをその作品を制作している監督が実現できてない皮肉がずっと張り付いてる。映画は監督のものだと思うのだけど、この作品に関しては監督より声が大きく通る人がプロデューサーか何かにいたんじゃないかな、という気配がある。
まず出てくる男性が悉くしょうもない野郎ばっかで、聡明なはずの主人公がなぜこんな男と駆け落ちするのか説得力がまるでないんですよ。深く付き合わなければ見えてこない瑕疵ではなく初心者でも分かりやすい瑕疵しかそこにないのになんでこいつと駆け落ち?って多分撮ってる方も思ってるんですよ、もっと憎み切れないロクデナシ方面に振ったり色々工夫の仕方はあるはずなんだけど、多分現場に声大きい人がいて、これでいいってなっちゃったんだよ。一事が万事その調子で、役者陣は多分監督に同情してんだよ、だからこんな作りでも腐らず頑張れって付き合ってる。
あとこれ字幕翻訳も悪い気がする。文脈や行間のあわいに漂うものを拾い上げてない上っ面だけの翻訳になってる気がする。英語力に乏しい私ですら、それもっと強いニュアンスだよね!?そんなにさらっと訳す!?と思った所ちょくちょくありました。
途中からベンハりんいつくるー?ベンハりんまだー?と思ってたら半分ちょいすぎたところでやっと登場、男の登場人物がクズしかいないのでベンハりんどんなドクズだろう?とドキドキしてたら男性陣唯一の良心だった\(^o^)/
でもベンハりんの演じてたモデルの人、バイロンに「吸血鬼」執筆の手柄取られて失意の中で鬱と借金まみれで25歳で亡くなったとか最後に紹介されててえ!?作中の男性陣唯一の良心だったのに\(^o^)/ってなりました…
あと主人公の父親の俳優さんが若干うちのリアル父親に顔が似ててなんとも言えない苦味が胸に広がったということも付記しておきます
ーcoyolyー

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