kkkのk太郎

火花のkkkのk太郎のネタバレレビュー・内容・結末

火花(2017年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

売れない若手芸人・徳永と、彼が師匠と慕う型破りな芸人・神谷の2人を中心に、芸人たちの人生が描き出されるヒューマン・ドラマ。

主人公の徳永を演じるのは『何者』『帝一の國』の菅田将暉。
徳永が師と慕う芸人、神谷を演じるのは『ソラニン』『バクマン。』の桐谷健太。
神谷と同棲する女性、真樹を演じるのは『イニシエーション・ラブ』『ピースオブケイク』の木村文乃。

なお主演を務める菅田と神谷は、主題歌も担当している。

原作は既読。
徳永を菅田将暉に演じさせるのはミスキャストだろ〜、と思っていたけど、いざ観てみると結構ハマってた。
神谷を演じた桐谷健太はなかなかにイメージ通りでグッド👍

観賞してみて、率直に感じたのは2点。
一つ、やはり「漫才」を演じるというのは難しいんだな、ということ。
長年の練習を積んで、ぴったり息の合った2人が演じるからこそ漫才は漫才たり得るので合って、やはり映画の為に組まれた即席コンビでは、「漫才」という表現媒体の面白さは引き出せない。
これが本作の一番のネックで、「あほんだら」の漫才の面白さや凄さが伝わらないので、徳永が神谷に心酔するという展開に若干無理があると感じてしまった。

二つ、やはり本職の漫才師は凄い。
「スパークス」のツッコミを演じるのは、漫才コンビ「2丁拳銃」のツッコミを担当している川谷さん。
「2丁拳銃」について詳しく知っているわけではないけど、漫才シーンでの丁々発止のやり取りを聞いて、すぐに本職の芸人さんだとわかりました。
20年以上も漫才を続けている人というのは、やはり漫才の呼吸のようなものをしっかりと理解しているらしい。
菅田将暉が悪い訳ではないが、やはり2人が並んで漫才を披露すると、川谷さんの技量の高さだけが目立ってしまい、「スパークス」に対して偽物っぽさを感じてしまった。要するに演者のバランスが悪い。

「あほんだら」のツッコミを演じるのは三浦誠己さん。
この人のことは全然知らなかったんだけど、元芸人さんのようだ。
全然知らない人だったのにも拘らず、観賞中「この人は本物の漫才師なんだろうな。」と思った。
「芸人に引退はない」という作中のセリフの通り、たとえ引退していても、漫才シーンのリアリティはやはり未経験者とは全く違う。
桐谷健太はとても頑張っていたと思うが、やはり本職を経験している三浦誠己さんとは技術的に差があり、「スパークス」程ではないにしろ役者のバランスの悪さが際立ってしまっていた。
「せやけど」を「しゃあけど」と発声する三浦誠己の関西弁が凄く本物っぽい😆

あと、もう一点。
菅田将暉と2丁拳銃川谷が同級生だというのは、いくらなんでも無理があるだろ!💦
20歳も歳が離れているんだよ!そこが気になり過ぎてお話が入って来んかったわい!

ついでにもう一点。
エンディング曲が「浅草キッド」なのはちょっと安直すぎる。
大体、この2人と浅草はなんの関係も無いじゃない。
『キッズ・リターン』をやりたかったから、最後にたけし要素を入れときましたみたいな感じなの?
桐谷健太と菅田将暉に熱唱されても、作中の温度と違い過ぎて全くノレなかった。
邦画の多くはエンディング曲を適当に考えすぎ。タイアップかなんか知らんけど、EDまで含めて一つの映画だっつーの。
関西由来ということで「ボ・ガンボス」とか「憂歌団」とかを使えばよかったのに。

ここからは映画というよりは原作の問題点かもしれないけど、やっぱり勿体無いのは徳永の書く神谷の自伝が、物語的に一切関係なかったこと。
いきなり自分の自伝を書くように指示されるという、結構インパクトのあるツカミだったのに、オチでそれを拾わないのは勿体無いと思う。
この自伝って結局なんだったんだ?

あとはお笑い芸人を題材にしておきながら、笑えるシーンが一つもなかったのはなんとも…。
終始重く苦しいシーンの連続で、抜きどころがない。
最後にちょっとした抜きのポイントはあるんだけど、そこまでが果てしなく長く、正直疲れちゃった。
映像的にハッとさせられるポイントや、美しいポイントが有ればまだ良かったんだけど、それも別になかったしねぇ。

結構酷評めに書いたけど、決して嫌いではない作品。
芸人として売れることの過酷さ、現実の残酷さが終始一貫して描かれており、作品にブレがない。
また、監督/原作ともに芸人ということもあり、お笑いや芸人に対する愛情がヒシヒシと伝わってきた。
ものすごく強度の高い芸人青春物語になっており、かなり心が揺り動かされました。
本作を観れば、芸人に対するリスペクトの気持ちが一層強くなること請け合いです。

神谷のアメカジファッションはダウンタウンの浜田雅功を、斜めに世間を見るようなカリスマ性は松本人志をモデルにしているのだろう。
対して、オシャレだが人とはうまく付き合う事が出来ない、そしてサッカーで大阪選抜に選ばれた経験があるという徳永は、又吉直樹自身をモデルにしていると考えられる。

多くの若者がダウンタウンを目指して芸人の世界へと足を踏み入れたことは言うまでもない。
又吉がNSCに入学し、芸人の道を志したのは1999年。
おそらくは又吉もダウンタウンからは大きな影響を受けているのだろう。

というのも、90年代のダウンタウンといえば、飛ぶ鳥を落とすどころか、飛行機でもロケットでも撃ち落とせるほどの勢いがあった。
89年〜の『ガキ使』や91〜97年の『ごっつ』などでバラエティやお笑いの常識を覆し、94年に松本人志が書いたエッセイ『遺書』は大ベストセラーに。
1995年、浜田×小室哲哉の楽曲『WOW WAR TONIGHT』は200万枚以上のCDセールスを達成。
98〜99年に発表された松本の映像作品『VISUALBUM』は、未だに多くの芸人から圧倒的な指示を受ける聖典と化している。

本作には神谷=ダウンタウン、徳永=又吉直樹とその同世代の芸人たち、という構図がみて取れる。
神谷に憧れ崇拝するが、その影響を受けるが故に自分自身を見失い苦悩する徳永。
最終的に神谷への崇拝を捨てる徳永。しかし、彼の笑いが大好きだという気持ちは変わらない。

又吉は、ダウンタウンを崇拝するあまり、自分自身のお笑いを見失い破滅する同世代の芸人たちを多く見てきたのだろう。
本作は自らの生み出した偶像としてのダウンタウンを崇拝するあまり、無念のうちに散っていった芸人たちに対する鎮魂歌であり、同時に若さゆえに苦悩していた若手芸人時代の自分自身を救済するための物語だったのだろう。
その、ほとんど私小説のような物語を、ダウンタウンに最も近い後輩の一人である板尾創路が監督しているというのは、非常に感慨深いものがある。

前半は圧倒的なカリスマ性を放っていた神谷が、終盤になるに従ってどんどん小物化していくのは、徳永が神谷を崇拝する気持ちが薄れていっているから。
神谷が変わった訳ではなく、徳永の気持ちが変わったことを表しているのだと思われる。
これは主観的な表現を行える小説という媒体だとうまく機能するのだが、客観的な表現にならざるを得ない映画という媒体だと、今ひとつうまく伝わらないな、と思ったりもした。

かなり胸がしんどくなる、重く苦しい作品であると同時に、何かを挑戦しようという時に背中を強く押してくれるような作品でもあると思う。
敗者にだって役割はある。その敗北を糧に、次どうするかが問題なのだ。
バカヤロー、まだ始まっちゃいねぇよ。
kkkのk太郎

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