レインウォッチャー

大人のためのグリム童話 手をなくした少女のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
グリム童話『手なし娘』をアレンジした仏産アニメーション。
ストーリーの大枠はなぞりつつ、登場人物の役割、主たる要素をいつどのように使うか、そして結末も少しずつ現代らしいチューニングが施してある。

原典は数あるグリム童話の中でもマイナー選手だと思うのだけれど、このアレンジを観ると「今なぜ語られたか」には納得感がある。
レガシー的価値観の物語をリメイクする試みは、それこそ某D社などを筆頭に度々行われているところで、うまくいったりいかなかったり…まあ、いかなかったりしているわけだけれど、今作の特にラストの着地点には「正しい!!」って叫んだ。

粗筋としては、
貧しい農夫が、うっかり悪魔の口車に乗って富の代わりに娘を譲り渡す契約を結んでしまう。約束通り家は栄え、悪魔は娘を連れに来る。しかし、娘の手の清らかさに悪魔は触れることができない。そこで悪魔は農夫に命じ、娘の手を切り落とさせてしまう(!)。やがて娘は落ち延びて、王子と出会い…
みたいなお話。

気付くのは、この悪魔との取引や娘の出奔は、要するに「婚姻」なのだということ。嫁ぐ先が悪魔であろうと王子であろうと本質的に違いはなくて、人身売買/政略結婚的な性格が強かった時代を彷彿とさせる捉え方であり、娘に主体は与えられていない。
そして今作が素敵なのは、単にこの旧態を批判し置換するだけに終わっていないところだ。それは、切り落とされた「手」の描き方に現れている。

王子は、娘に煌びやかな義手をプレゼントする(※1)。娘は喜び、王宮での生活が始まるわけだけれど、娘の心は充たされない。義手はあくまで義手であり、生まれた子供を抱くこともままならず、故郷の山よりも退屈な生活の中で無気力になっていく様が描写される。
娘はこんなことも口にする、「王子のくれた手は役に立たない」「手より唇に触れてください」。

思うに、今作における「手」とは女性の主体的な生きる目的のようなものだろう。嫁ぐ前までは自然と持っていたはずのそれが、「妻」「母」というレッテルが外部(男)によって貼られてからは失われてしまう。
映画では後半にあるイベントが起こり、娘はまた旅に出ることを余儀なくされるのだけれど、自らの意志で再び目的を選び取ったとき、はじめて「手」は応えるのだ。

加えて、男性側の設計もうまく考えられている。この話に限らず、昔話における男性はぼんやりとしたシンボル的な役割が多い。(※2)今作の王子(どこの?)もまた、なんとなくな感じで主人公を置いて戦争(何の?)へ行ってしまう。

戦地から帰ってきた王子は疲弊していて、ヒゲぼうぼう。この風体は、おそらく意識的に主人公の父親と近く描かれている。ほかに男性らしい男性が登場しないこともこの連想を強調するところ。要するに男もまた、結局決められた枠の中で、同じようなロールの輪廻に囚われているのだ。
このような娘と王子が最後に行う選択は、どちらにとっても主体的で、かつ「未来のため」に共助の精神に則っていることがとても好ましい。

最後にアニメーションとしての魅力に触れておくと、和紙にさっと色を引いた水墨画のような線がかなり個性的だ。ジブリ/高畑勲の『かぐや姫の物語』(奇しくもやはり昔話リメイク)を、さらに抽象度を上げて崩したようなスタイル。
線と色の場所は時に乖離しているのだけれど、それをわたしたちの目は「娘だ」とか「木だ」「川だ」と判別(錯覚?)することができる。このバランスの調整が挑戦的だし、何より美しい。

そんなファンタジックとも言える絵世界の中で、時に排泄、授乳、流血といった生々しい生命の動きが差し込まれる。童話の登場人物にリアルな輪郭を与え、「これはわたしやあなたの物語」と告げているようでもある。

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エレクトリックギターを中心にしたダウナーな劇伴も、童話にしては珍しいアプローチ。たまにプリペアドギターっぽい音色が不穏。Olivier Mellano(めも)

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※1:このへん、「手があること=あるべき姿、普通」と無意識に選んでしまっているのが、盲目的・支配的なバイアスを表しているとも思う。庭師が描く妃(主人公)の肖像画も、手がある状態で描かれている。

※2:王子と娘はあっさり恋に落ちて結婚するが、それは夢の中にしか存在しないシンボル同士を見ているからだ。