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ハウス・ジャック・ビルトのsanbonのレビュー・感想・評価

ハウス・ジャック・ビルト(2018年製作の映画)
3.5
夢中になれるっていいね。

どんなAVよりも実用性の高い「ニンフォマニアック」でもそうだったが「ラース・フォン・トリアー」監督は、作中に"哲学"をガッツリと絡めつつも、本質は人間の内にある獣のような本性を剥き出しに表現する事を使命としているようで、今作もまたそんな監督の思想を色濃く感じ取る事の出来る内容となっていた。

そんな今作で題材となったのは、実は監督の前作と
同様"背徳感への好奇心"である。

前作は、性依存に苦しむ女性の生き様に哲学を交えて展開しており、R-18版はまさかの無修正で生々しい性描写をイタイ程堪能出来るという至高の逸品であったが、今作の内容としては言うなればそれが殺人を楽しむ男性の生き様に置き換わり表現されているだけのように感じた。

この監督の凄いところは、どんなに"下衆"な内容でも哲学的な考証を織り交ぜる事により、あたかも高尚な作品のように錯覚させてしまう事にあり、今作でも建築家を夢見る「ジャック」の挫折と苦悩を殺人欲求に結び付け、それに哲学を介在させる事により、ジャックという人物像を一種の芸術家の如く理解不能で難解な存在に見立てているのだが、実際のところはもっとシンプルな見方でなんら構わない事に途中から気付いてくる。

つまり、これは単純に"趣味"のお話なのである。

誰にでもなにかしらに興味を抱き、それに打ち込んでいるものが一つくらいはあるかと思うが、ジャックにとってはそれがたまたま殺人であり、今作はただただそれに熱中する姿を映し出しているに過ぎないのだ。

その片鱗は突発的だった1人目を除き、2人目以降どんどんエスカレートして、そして手練れていく。

2人目の殺人なんかは実に衝動的で、口八丁のでまかせを並べ立て、出たとこ勝負のような危うさの中で、逸る気持ちを抑えきれずに犯行に及んでいく様が、覚えたての趣味への飽くなき渇望を上手く演出出来ていて実に初々しい映像になっていた。

そして、次の殺人からは結婚詐欺のような周到さを見せはじめ、狡猾に親子を狩猟場まで誘い込んでは、淡々と容赦なく殺しを楽しんでいくようになる。

これには、哲学を唱える反面、ただ欲望に身を委ねる様な打算性を感じさせ、徐々に要領を得だした辺りからは犯行に対して強迫観念も薄れていき、より大胆に振る舞うようになると同時に、趣味がみるみる上達していく様が段階的に楽しめる仕組みにもなっていた。

そして、手慣れた頃には"戦利品"である死体に対してもまるでオブジェのような加工を施してみたり、愛情を感じていた女性に対しては、殺す過程で乳房を切り取りそれを財布にして持ち歩いてみたりと、どんどんと応用が利いてくるようになる。

この映画は、行われるのが殺人だから当然嫌悪感を抱く訳だが、一度そのフィルターを取っ払って観てみると、ジャックの好きな事に対する熱意のかけ方、興味や好奇心が純粋なまでに伝わってきて、それがなんだかだんだんと微笑ましくも感じてくるようでもあった。

それは、ジャックがおっちょこちょいだったり心配性だったり、ところどころで人間らしい振る舞いをみせる"コミカルさ"を感じるキャラクターとして作り上げられていたからであり、監督もそう感じられるように計算して設計しているのだと思う。

そこで、今作の主題を今一度思い返すと、背徳感への好奇心であった事を思い出す。

なるほど、ジャックがそれを追求しているのを観ている間に、自分自身にもジャックの姿を通してその言葉が当て嵌まっていた事に気付く。

ジャックが捕まる未来よりも、今ジャックの目の前で殺されかけている人物の未来の方にこそ興味が湧いている自分がいる。

つまり、ジャックこそが背徳の象徴であり、それに惹かれる自分自身が、気付けばジャックと同じ思想に揺らいでいるのだ。

性や暴力は、どんな聖人君子であろうと必ず内包している欲望である。

それに対する好奇心は本来理性で抑える事が出来るものだが、小難しい理屈を並べ立て、その衝動を正当化する為の"理論武装"こそが哲学であり、それはあくまで程のいい言い訳でしか無いから、実はその内容自体にはあまり意味は無く、それを解き放ち思うがままに熱中するジャックは罪深くも羨ましい生き様と言える。

そして、少なからずそう感じる自分も、もしかしたらジャックと同類の人間なのかもしれない。

しかし、それをラストでちゃんと文字通りの地獄に落としてくれる事で否定してくれたのは、監督の良心によるものなのだろう。

好きな事でも駄目な事を好きな様にやったら、必ずその報いは受けなくてはならないのである。

自由とは、定められた不自由の中にあるからこそ存在し得る概念なのだと思い知らされる。
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