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ハウス・ジャック・ビルトの3110133のレビュー・感想・評価

ハウス・ジャック・ビルト(2018年製作の映画)
4.7
みんな観た方がいいけれど、観ない方がいい(観ないで済むなら)

芸術に関わる人はこの作品を丁寧に精読してみていいのだろうと思う(これは職業的にといった意味ではなくて、この世に生きている以上芸術に関わらない人など居ないのだという意味で)。

(執拗なグロテスク描写は趣味の問題としてキツいものがあるので、観ない方が良いというしかないのだけれど。グロテスクなものを含め、屍体というものについてはここで触れないけれど、かなり重要なもので、単に悪趣味として片付けられない、必然性はある。必然性はあるけれど、ほんと辛いので、見返すのが嫌になる。)

ジャックが建てる家は芸術作品だということは誰が見ても明らか(建築物というものが芸術だということではなく、芸術のメタファーとしての家)なのだけれど、
それだけだと、芸術のために殺人を犯すヤバい奴の話で止まってしまう。
この家としての芸術作品をドゥルーズ+ガタリのリトルネロ概念とバロックとしての芸術作品として考えると、思考が動きやすいように思う。デリダのヴェール概念やベンヤミンの言語論も接ぎ木するともっとよい。

極々簡単にいえば、芸術作品としての家は、この世界の諸々を素材として利用し、つくり手の安心できる領土に建てられる(領土化)。
その家はつくり手の水平方向への表現(平たく言えば他の人間などに向けられたもの、求愛や威嚇、あるいは意味や意志の伝達)であり、同時に安心できる住処でもあるのだけれど、それが芸術作品である以上、垂直方向への表現(神に名前を伝えること)でもある。
(劇中では、ジャックの家は誰もいない場所、もしくは秘密基地に建てられているので、水平方向への表現は放棄されている。)
垂直方向を志向する家では、芸術=「まったき他者」の到来を歓待しなければならない(デリダ)。そのために、もしくは到来を予感することで、つくり手は家から外に出ることになる(脱領土化)。
表現者=証言者の言葉ないし言語(名前)は上方の「神=まったき他者」に届けられ、(そして?芸術が媒質として考えれば、同時に?)まったき他者は上方から到来する(バロック様式)。

だけれども、主人公ジャックが下方、地獄に向かって脱領土化するラストは注目に値する。水平方向(世俗的な世界)からは追いつめられ、上方に脱領土化することなく、地獄に落ちる。
屍体を素材として建てられたその家は、井戸の穴を囲む小屋のようであり、そのときはじめて家は「役に立つ」と言われる。
これをどう考えたら良いのか。課題としておきたい。
(少なくとも世俗的な倫理観から考えるべきではないのだろうとは思う。「なぜ、この芸術家は神の到来を待たずして、地獄に堕ちたのか?」)

以前に仲間内の小さな研究会で、この地獄に響く声を、ドゥルーズのリトルネロ概念のうちの「第二のタイプのリトルネロ」(シンセサイザー)とアドルノ・ホルクハイマーがアレゴリー的理解によって描き出したセイレーンの声とを結びつけて論じたことがあったけれど、あの声は劇中でどうしてそうなるのかちゃんと説明されてておもしろい。

ジャックの起こす猟奇殺人を、個人的なもの(彼の資質、異常な精神)に求めるのではなく、これはらすべて人類の蛮行のアレゴリーとして見たい。
ひとつひとつを読解することはここではしないが、その蛮行は歴史的な特殊な事例だけでなく、私たちが生きるために日頃行なっていること(邪悪化した食肉とか)も含まれているように思われる。
仮に、ジャックは異常者でサイコパスで最悪な奴!と断罪するのなら、その最悪なものは私たち一人ひとりに内在しているということを思い知った方が良い。ジャックは私たちそのものなのだと。

悪とともに芸術表現をする。悪は私たちに内在し、私たちは等しく芸術表現を行なってしまっている(リトルネロとして)。これは私たち人類の物語なのである。

けれども、フォン・トリアーは私たちを弾劾しているのではなく、彼自身が懺悔するようにこの映画を作っているようにも思われるのだ。
(いままで僕は、映画を作るために、たくさんの人を犠牲にしてきた。ごめんなさいっていう。)
そう思うと、ラスト地獄の火に落ちる様は、滑稽なものとして俯瞰する視点が見て取れ、監督の邪悪さのようなものがにじみ出ている。(自分が地獄に堕ちることをシミュレーションすることで、ちょっと気が楽になっちゃってるんじゃないの!?いままで犠牲になってきた人たちは怒っていいと思う。)
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