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サドのための絶叫の飯のレビュー・感想・評価

サドのための絶叫(1952年製作の映画)
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いま、ここ、一回だけの絶叫。初上映当時の64分間内に生きていた作品。今私たちが観ているのはただの複製された残骸にすぎないだろう。
今のあらゆる上映はこの反映画の映画化、反スペクタクルのスペクタクル化であるーー『サドのための絶叫』は1952年のシャイヨ宮上映以降もう存在しない。

映写機のストライキ。視覚中心主義への対抗。”盲目”な映像。映写空間がバフチン式のヘテログロシア・カーニバルに“退化”し、よって集中力が崩れてしまい、身体の共感覚がよみがえる。

映画は死んだ。とギー・ドゥボールが言った。そして映画の死後はーー“like lost children we live our unfinished adventures.”
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