YasujiOshiba

もうひとりの男のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

もうひとりの男(2001年製作の映画)
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イタリア版DVDにて鑑賞。なるほど作家のデビュー作には作品の未来がつまっている。とはいっても、この作品は長編デビュー。

ソッレンティーノはこの作品の前に、いくつか興味深い短編を撮っている。以下、3つ挙げておく。

1)最初が1991年の『Un paradiso』(ある天国)。若干21歳のときの作品。「人は死ぬ前に自分の人生で最も大事だったときを再び生きる」という話から始まると、ある男が自殺する。最後の瞬間に彼は、友人たちとカラオケをしていたころを目の当たりにして、果てる。
https://www.youtube.com/watch?v=uSQbCBs8WMU

このコミカルでどこかグロテスクにして微笑ましくもあるそんな死のイメージは、まさにソッレンティーノ節。

2)次の短編は1998年の『L'amore non ha confine』(愛に国境はない)。15分近い立派な作品。インディゴ・フィルムが制作だけど、このプロダクションとの出会いが決定的。
https://www.youtube.com/watch?v=Rq9Qn_0Eag0

主人公のベアートは殺し屋。その手には不思議な能力があり、ライフルを出したり、拳銃を出したり、そしてなによりもパワーがすごいのだけど、髪型がポニーテール。そして冒頭から「今日はパンツ変えなきゃダメよ」と女に諭されて、あちゃーという顔をする。その彼が、マハトマと呼ばれる恐ろしいボスに呼ばれ、ボスの子分のなかの裏切り者を消すことになる。俺にはわかった。お前は当てろ。そして殺せ。めちゃくちゃな命令。でもベアートは見事に裏切り者を殺すのだが、ボスの女から「私のこと覚えている」と声をかけられる。エヴァ・プリーマドンナ(最初の女イブ)という名の彼女は、じつは昔はベアートの愛する男だったのだが、どうやらモロッコで性転換して女になったらしい。それは奇妙なアナグノリシス。ベアートは唖然とするボスを殴り飛ばし、元彼の彼女をつれて、闇の世界の扉を開けて、光あふれる表の世界へ踏み出してゆく....

ここでは音楽も決まっているし、昔愛しあったころの記憶のモチーフが印象的。

3)それからソッレンティーノは同じインディゴ・フィルムのプロデュースで、麻薬撲滅のキャンペーンフィルムを撮っている。他の監督の共作した短編だけど、これはちょうど2001年。映画としても落ち着いているその作品のタイトルは『La notte lunga』。
https://www.youtube.com/watch?v=BKbyxcpvxhc&t=10s

主人公は美容師なのだけれど、その美容師が夢から覚めるところから始まり、ドラッグを吸いながら、ナイトクラブへとぼくたちを案内してくれる。それは後に『グレート・ビューティー』(2014)や『Loro 欲望のイタリア』(2019)で堪能させてくれる美女たちの濃艶な肢体のスペクタクル。成功の頂点にある美容師なのだが、それは実のところドラッグの幻覚にすぎず、再び目が覚めたところは、もはや自分が落ち目になっているという現実。夢と現実、現実の夢の行ったり来たりもまた、ソッレンティーノならではのテーマ。

この同じテーマをさらに展開させるのが、「もうひとりの男」というわけなのだ。

以下、追記- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

冒頭のシーンがよい。夜の海のスピアフィッシング。男がふたり。ひとりにタコがからみつく。大きいタコに絡まれた男が苦しんでいるように見える... そんなオープニングは、ちょうど『L'amore non ha confine』の打ち寄せる波を望んだ砂浜の、ベアートと将来のイブを思い出す。じっさい、『もう一人の男』でもそんな砂浜のシーンが登場する。そして、やがて、冒頭のシーンの意味がわかってくるという仕掛けなのだ。

もうひとつのオープニングがすごい。なにかの部屋に男が入ってくる。なんだか人相が強烈にやばいのだが、きちんと背広を着ている。その背広から静かに鍵やライターを取り出し、時計を外して、ぜんぶを机に整然と並べてゆく。やにわに背広を脱ぐと、ぐるぐると振り回せば、恐れ慄く若者の顔。顔。顔。そこは刑務所か、マフィアの事務所か、それとも拷問部屋なのか。そこでカメラが引き、ハーフタイムのロッカールームだったとわかる仕掛け。その短編で、シュール/グロテスク/コメディを続きてきただけのことはある。

このロッカールームで怒鳴り散らす監督イル・モロッソ(名優ネッロ・マッシャ Nello Mascia )に楯突くのがアントニオ・ピサピア(アンドレア・レンツィ)。ディフェンダーなのだけど、全員で積極的に攻撃に打って出るべきだと戦略を語る。戦略はおまえら選手の考えることじゃないと怒鳴り返す監督。彼がこだわっているのは伝統的なカテナッチョとカウンター。そうではなくて全員攻撃の必要を説くアントニオ。引いて守るのではなく、中盤近くに位置して、チャンスとみたらディフェンダーも攻撃参加、ヘッディングを決めることができる。まさに「もうひとりの男(l'uomo in più)」という戦略を語る。

もちろんそのためには90分走り回らなければならない。筋力ではなく心臓を鍛えなければならない。エアロビクスが必要だ。そういうアントニオにイル・モロッソが皮肉を言う。「中盤は誰がプレイするんだ、ジェーン・フォンダか?」(E a centravanti chi gioca, Jane Fonda?)

いまでこそ当たり前になった中盤をコンパクトにして攻撃は全員で行うスタイルは、1980年には戯言にすぎなかった。しかし、その戯言を実際に試みた選手がいる。ソッレンティーノが着想を得たのは、ローマでプレイしていたアゴスティーノ・ディ・パルトロメイ(1955 - 1994)という選手。

ウィキペディアによると「バルトロメイはゴールを挙げる高い能力を持っていたが、当時のローマにはバルトロメイとファルカンの2人のプレイメーカーがいたため、リードホルム監督は、バルトロメイをディフェンダーの前のポジションに置き、ファルカンにより攻撃的な役割を担わせた。バルトロメイは、ローマ在籍中に、コッパ・イタリアを3度優勝し、1982-83シーズンには記憶に残るスクデット獲得を成し遂げた。1983-84シーズンはUEFAチャンピオンズカップで決勝に進出したが、リヴァプールにPK戦の末に敗れた」(https://ja.wikipedia.org/wiki/アゴスティーノ・ディ・バルトロメイ)。

そしてもうひとつ。ソッレンティーノの言葉によれば、サッカー選手としてはめずらしいくうつ病に苦しんでいたという。最後は自殺。アンドレア・レンツィが演じたアントニオは、そんな実在の人物から着想されているというわけだ。

このアントニオには同姓同名の「もうひとりの男」がいる。その甘い歌声で女性をうっとりさせる歌手アントニオ・“トニー”・ピサピアだ。演じるのはトニー・セルヴィッロ。監督を演じたネッロ・マッシャもそうだが、セルヴィッロも演劇人。映画には縁がないと思っていたというが、ソッレンティーノに抜擢され、演技だけではなく見事な歌声も披露している。

そんなトニーという登場人物の歌手の背後にも実在の人物がいる。フランコ・カリファーノ(1938 – 2013)だ。映画と同じ派手な芸能界で輝いたスターであり、実際に逮捕歴もある。どうしてそんな歌手を選んだかというと、ソッレンティーノの父親が聞いていたからだという。なるほど、カリファーノのイメージに、その父の思い出が込められているのだろう。
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