すかちん

冬の旅のすかちんのレビュー・感想・評価

冬の旅(1985年製作の映画)
4.1
2020年の秋に文芸坐のヴァルダ特集で初めて観て以来、この映画のいくつかの場面がフラッシュ・バックする。初見の際の印象は、衝撃というよりは、自分のなかにもともとあった「トロ火」がよりはっきりと見えるようになった、というようなものだった。その「トロ火」がどういうものかというと「自由に生きる」とか「奴隷にならない」とか「社会と折り合いをつける/つけない」とか「自由と怠惰をはき違える」とか、それらを全部ひっくるめた「あきらめのような思い切り」だ。

今回の国立映画アーカイブでの上映主旨は<フランス映画を作った女性監督たちー放浪と抵抗の軌跡>という特集企画に沿ったものだけれども、アニエス・ヴァルダは本作をストレートなフェミニズム映画としては撮っていない。女性を性的愛玩物としてしか見ていない男性の陰惨な視線がこれでもかというくらいにえぐり出されるけれども、モナもまた、ちょっとお金が要るので気まぐれにちゃっちゃっと性器を使わしてやったというような無惨な性行為をする。売春とも呼べないような換金作業である。

気まぐれだから、やりたくない時はやりたくない。けれども、モナの気まぐれ=自由などはお構いなしに、男性という名の「社会」が暴力を伴ってのしかかってくる。気まぐれに社会と折り合いをつけたりもするけれど、いつでも折り合いをつけるわけじゃないんだよ、モナは。

性行為に限らず、モナはとにかく換金作業がしたくない。そこそこやさしい、自分と若干似た境遇のモロッコ人のおじさんから枝切り仕事を紹介されて、最初こそまじめにやってみせるけれど、すぐにだらけて、パチンパチンときまじめに枝を切っていくおじさんをぼんやりながめるだけになる。気まぐれ〜自由〜怠惰〜堕落の間に境界はない。

真っ裸で海で泳ぐのはモナの自由だ。そのへんに生っている果物を採って食べるのも、好きな場所にテントを張るのも、本来自由なはずなのだ。けれども「男の性欲」と「金」でつくられた社会がその自由を阻む。

モロッコ人のおじさんはマフラーも貸してくれたし、食事もつくってくれたし、性行為を求めることもなかった。モナを気遣ってくれた数少ない男性だ。ふたりが一緒に食事をしながら手と手が触れ合う。あの場面は美しい。おじさんはしかし、モナよりはもう少し社会との折り合いをつけている。仕事を淡々とこなし、モロッコ人仲間にも忖度する。それくらいの折り合いのつけ方にも我慢ができず、奴隷のにおいを感じて、モナは罵詈雑言を吐いておじさんのもとを去る。ラディカル過ぎる自由。モナが打ち捨てていったマフラーを鼻に当てて嗅ぐおじさんのカットは、甘く哀しく、それでもうっすらと幸福と愛がにじむ、忘れがたいカットだ。

ラディカル過ぎる自由は、冬の土のごとき寒々と硬い孤独をかかえている。モナの歩行を支えていた靴のひもはしだいにゆるくなり、てくてくとした足取りは徐々に地面をずるようなだらしないものになる。しっかりと巻いてあったテントはいつのまにかなくなり、ボロをまとうだけになる。そうして、ぶった切られるような、なしくずしの死。そんなモナの姿を見るのはつらいが、では彼女の短い人生は「悲惨」だったのか。いや、そんなことはない。そんなことはないと思いたい…という行ったり来たりが「トロ火」なのだ。

ケリー・ライカートの『ウェンディ&ルーシー』は明らかに『冬の旅』の影響下にある。けれども、ウェンディはモナほど孤独に徹底していない。なぜなら、ルーシーという「伴侶」がいるからだ。結果的にルーシーとは別れることになるとはいえ、ルーシーが生きている、いつかまた会える、ルーシーがどう生きているかに思いを馳せられるということが、ウェンディが生き続けられる支えになっている。

ヴァルダのほうがより冷徹に「自由」と「孤独」を描いていると言いたいわけではない。人生には「伴侶」が、「他者」が必要だとライカートは示唆していると言いたいわけでもない。このふたつの映画は、社会と折り合いをつける/つけないでいつも逡巡し、気ままに生きたいが独りぼっちはつらいと思う私には、折に触れて見続け、自分のなかの「トロ火」を確認する、かけがえのないものなのだ。
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