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冬の旅のotomisanのレビュー・感想・評価

冬の旅(1985年製作の映画)
4.1
 モナという娘については身分証の類はまるでないそうで、ならば「モナ」という名も本当かどうか、ただ、気に入ってるならそうなんだろう。
 気に入っているなら、捨てた親に付けられた名でもいいのだろうか?嫌いな兄弟姉妹、親族、知友から呼ばれたその名でも構わないのだろうか?嫌な思い出の故郷、故地に残るその名を引き摺って生きてる事も耐えられるのだろうか?我が遠ざけた全てがそれと知っている呼び名に我慢できるのか?

 モナの生き方は「楽して生きる」のだそうで、そのためなら野宿もよし?暑さ寒さに飢渇もよし?一時雇いの力仕事だってよし?しかし、誰かの何かを拝借するはもっとよし、使い終わればポイ捨てでもよし、感謝するもよければ不満を溜めず即相手に吐き出すのがよい。
 およそ相手を気にも留めぬ気な彼女の言う「楽」とはなんだろう?この世は我ひとり、同等とは見做せない誰かを斟酌して我を措く「苦」を遠ざけられるものなら痛苦の暮らしも進んで選び取るのだとすればどうだろう。

 こんな無縁の生き方で、他人に縁の触手を伸ばされれば躱してプイと消え去る。かと思えば居心地次第で居座る事もやぶさかではないらしい。いっとき飼われてみるのも野人の処世術であろう。そこがいちどは文明化された者の野生とは異なるありようなのだろう。
 世間を自分の都合ひとつで渡れるほどの何かを体得しているなら、たしかに楽な世渡りもできるだろう。それでいい羽振りの者もいるに違いない。しかしその挙句、モナの場合は尾羽打ち枯らした浮浪者の死体として我々に見出され、知れるその消息はたかだか数週間以前まで。この寒い冬の寒い田舎の無縁境に流れ着いて以降に過ぎない。

 この一癖ありな面立ちのモナが恐らく獣じみた臭いを撒きながら、大学入学資格者の言葉を吐いて懶堕な風で勝手を通して来るのに接すれば、それは自ずと人類学的関心の対象、ヒトとは何かを問い語るモノローグを増やすための観察対象とピンとこよう。それとも文明人への矯正、回帰が可能かを問う対象、要観察者ともなるだろうか。
 その野人の習性は石器文化以前、目の前にあるものをただ望みに応じてそのまま利用するだけを倣いとする、何も作らず蓄えず従えもしない、恐らく欲も乏しいところの素のヒトの姿かと思わせるかもしれない。
 この珍獣?野人?「街道の人」モナをおもしろがるのか愛するのかスズカケ先生は何くれとなく気遣うのがどこか可笑しい。あの先生はモナに現代のクヌルプのような幻でも覚えたのだろうか?
 同じく、エプロン婆ちゃんも酔っ払い同士の勢いでモナと意気投合してしまうのも、車寅次郎的展開で、先生共々ハマる人はハマるという事だろうが、寅次郎が文明の下でしか生きられないように、モナはそんな文明を遠ざけたいようななにかを感じさせる。
 寅次郎が殿様や大先生、天下の名人巨匠だのあんな人たちとの思い出を利して生きながら、その記憶の多くを埋没するにまかせるだろう様にモナも心置きなくまた寒くて辛い旅に戻ってしまう。寅次郎にはあれらがいざと云う時の「有用」なご仁であるのに比べ、モナは彼らをヒトと思っているのだろうか?何か特殊な、文明界の精、魂とは無縁な、つまり自分とは対照的なヒト型をした何かのように置き捨ててゆくようである。

 ただし、野人モナへのもう一つの関心は彼女がヒトの形をしていて、ヒトの言葉が分かる事による利用価値を担う者、との事である。
 モナと似た者同士がつるむコロニーで企まれるのはモナを出汁にするかなんかの小銭稼ぎである。モナはそれを知ってか知らずかしているが、女であることによる自らの身体の用途はよくわかっているだろう。
 立派な文明社会にもあるその仕組みは、元々野人同士の原始社会でも既に存在したという事か、それとも、野人社会の文明化、都市化であろうか?野人とて現金なしには社会に接触できない。数少ない女性野人を現金獲得のネタにしようという考えは野生の思考にもとうの昔にあったのではないか?
 しかし、それを受け継いできた文明社会を飛び出したモナが「楽する」ための手段、資本としてそれを用いなかったことがモナの獣化の理由ではなかったろうか。すなわち、そのため野人界でもモナの居場所は定まらず、かと言っていまさら、親兄弟の元にも戻れないのも想像に難くあるまい。

 そんなモナのどん詰まりに呼応するように、突如文明社会の方が原始の情念を取り戻すかのように「ワイン祭り」でモナに襲い掛かる。
 といっても酔っ払い諸君がワイン澱を通りすがりの者に浴びせかける墨付け行事の一種に過ぎないが、生きる場所を日に日に狭め、自らを窮地に追いやって心身ともに病んだモナには酔っ払いワイン鬼は十分な文明忌避の衝撃だろう。
 この忌避すべき世界の中心におそらくモナの「ママ」がいて象徴的な言葉「食事は豪華に」とお触れを出すのだ。その現場がどのように成り立ち、どんな毒素をモナに見舞ったか、モナのひもじく寒い日々の対極にあるだろうママから離れて最期の一晩前にあらためて敵対する事で最後のこころの暖を取った次第だ。
 燃やす脂肪が無くなっても怒りと反抗心は常に燃料を回してくれるがそのツケはどこに回されるのだろう。その燃料補給さえなければいのちを切り売りする事もなく、当然こうして冬の旅を決行する事も野人に陥る事もないのだ。
 熊を追い払うのに「怖がらせ放獣」が有効だと言うように、祭りに追っ払われたモナがそのまま凍死するまでに至るのも、野人であれ文明人であれ人間界は実はなにかにつけ恐ろしいからにほかなるまい。

 文明回帰を逃す残念なヤツ、たつきの道具として惜しい奴、もうちょっとでいい相方だった奴、羨ましい自由人、生きている不思議の奴と、多くの証言者がもう少しで手が届くのに逃げていったのか逃してしまったアイツのように云う。
 この、街道をやって来た良くも悪くも異人が図々しくも生き延びる事に皆疑いもないのではないか?猫が居心地のいい場所を探して寝そべりに出かけるようにモナもまた出かける。それが本当かどうかは彼等の立ち入る余地がないから、そうなのだ。
 そんな生き方こそ彼らが日頃想像もしなかった、おそらくモナに接するまではそうできなかった生き方を伝える珍奇な騒擾である。日本ではこれも一種の神であろう。いっとき周囲を騒がせ鎮め難い余韻を残して消えてゆくが、その余韻は時には思い出として玩ばれ、あるいは再構築されるだろう。こうして「モナ」という名さえ知らないままなのに神は神らしく彼等の中で死ぬこともないだろう。
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