河

笑う男の河のレビュー・感想・評価

笑う男(1928年製作の映画)
4.6
こういう映画割と苦手だったけど、この映画は演出や演技もあってかなり感動した。ホラー映画のように見せたパッケージは最悪で『エレファント・マン』とかと近い映画。

独裁的な王に対して反乱を企てた王族が処刑され、その子供は一生笑った表情しかできないように手術される。その子供が主人公である。同じような人々が国から追放されるが、その子供は国を出る船から追い出され、助けを求める中で凍死した母の抱えた赤ちゃんを見つける。そして、旅人である哲学者の元に辿り着くが、その赤ちゃんは盲目だったことがわかる。そこから時間が経ち、哲学者と笑う男である主人公、盲目の女性は擬似家族のように共生していて、主人公を中心としたフリークショーで各地を旅しながら生計を立てている。ショーのメンバーもその擬似家族の一員のようになっている。

とある祭りにおいて笑う男を中心としたショーが開催されることになり、観客が押しかけてくる。主人公はその笑う顔によって偶像と化している。主人公の内面を見ることができているのは女性のみであり、それは盲目だからこそである。

盲目の女性は主人公に恋していて、哲学者も父として結婚を承認するつもりでいるが、主人公はその顔によって結ばれる資格がないと感じている。主人公も自身の外見によって自分を見ている。自分を自身の内面ではなく見せ物としての自分と同一化している。

そのショーに王族の女性が現れ、主人公に興味を持ち家に招く。盲目の女性が主人公の内面を肯定したのに対して、王族の女性は主人公のその外見、偶像としての主人公を肯定する。主人公は王族の女性による外見の肯定によって、盲目の女性がもし自分の外見を見たとしても肯定してくれるはずだとして結婚を決める。

しかし、主人公が王族であり王族の女性の資産も主人公のものだったということが発覚する。主人公はそれによって囚われ強制的に王族の女性と結婚させられることになる。全てが満ち足りた王族の暮らしに対して、主人公たちの様々なものが欠けている社会的にもアウトサイダーな生活が対置される。哲学者や盲目の女性は国を追放されることになる。

主人公がその全て満たされた生活よりもアウトサイダーとしての生活を選び、王族から逃げ出し、追放されていく擬似家族の元へと帰ろうとするシークエンスがクライマックスとなる。主人公を演じた役者の演技が凄まじく良く、主人公は常に口は笑っているのに目は常に別の感情を訴え泣いている。主人公は無理に自身の内面を捻じ曲げてその笑った姿、偶像としての自身の姿に一致させようとしている。

そして、ラストで遂に元の家族と合流する。そこで主人公は表情としてだけでなく内面から喜んでいる。遂に主人公の内面と外見が一致するようになる。そして、照明が一気に強くなり哲学者と盲目の女性、主人公が幸福そうに笑い合う姿が輝くように映され、映画が終わる。

主人公がその外見により周囲から規定された自分と外見から切り離された自分自身との間を葛藤し、後者を選ぶ話となっている。王族での暮らしを選ぶことは前者の自分として生きていくことであり、擬似家族との生活を選ぶこと、盲目の女性と生きることは後者の自分を選ぶこととなる。

パウル・レニの映画はどれも役者の演技が最高で、その中でもこの映画の主人公の演技は飛び抜けたもののように感じる。映画の主軸となる主人公の葛藤がその役者の演技、演出と一体となって存在しているため、がっつり感動してしまった。

主人公がいなくなったことを盲目の女性が気づかないようにショーの全員で観客がいるような芝居を打つシーンなど、この映画ではアウトサイダーである人々に対するベタすぎるほどの肯定的な視線がある。パウル・レニは『裏階段』から社会の裏側、暗闇にいる人々を中心に据えて映画を作ってきた監督のように思っていて、その人々が遂に幸福を得るという話としてこれ以上の作品はないように思う。

バットマンのジョーカーの元ネタとして有名らしいけど、それに関しては外見がここから引用されているだけで、キャラクター造形に関してはフリッツラング『スピオーネ』の道化の方が近いんじゃないかと思う。その道化も同じドイツ表現主義映画である『プラーグの大学生』や『戦く影』における人を操る存在から来ている。ただ、映画『ジョーカー』に関しては生まれつき不幸な主人公がその不幸によって偶像化するという点で共通するし、この映画の外見から内面への自己規定の変化を逆にし、笑えない人間が笑う男へ変化していく映画にしたもののようにも感じる。
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