古川智教

夜の浜辺でひとりの古川智教のレビュー・感想・評価

夜の浜辺でひとり(2016年製作の映画)
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愛とは越境である。示すことが難しいのは愛の方ではなく、越境の方である。先輩を訪ねて異国の地を踏んだとしても、ヨンヒはもちろん映画でさえ何も越えたことにはならない。だからこそヨンヒは異国の地の橋のたもとで立ち止まり、唐突に跪いて祈りの姿勢を取らなければならなかった。越境の手前で立ち止まり、何が望みかを考えることが必要なのだ。その際、ズームでは人物に随伴するにせよ、しないにせよ、越境を映し出すことはできない。越境についていこうとしても既に越えた後なのだ。では、映画においてどんな技法がわずかでも越境の過程をその一部分でも切り取れる可能性を有するのか。それはパンである。異国の地の海岸で波打ち際=境界へ近づこうとするヨンヒからカメラはパンして、帰路につこうとする先輩たちを映し出し、それから再びヨンヒの元に戻ってこようとするのだが、元の場所にはヨンヒはおらず、先輩たちとは反対の方向にまでカメラがパンしていくことで見知らぬ男におぶられて連れ去れられていく=越境していくヨンヒが映し出される。そして、映画自体が越境し、唐突に前後の脈絡なく第二部を迎える。第二部においても酒席での愛されることの資格を巡ってのヨンヒの逆上、女同士のはじめてのキス、ホテルでの窓ガラス=境界の向こう側でガラスを吹き続けている映画内で存在しているのかしていないのか分からない男といった境界と越境の間で映画は揺れ動いていく。しかし、どれほど越境の過程の片鱗を示そうとしても、映画が過去でしかないように既に越えた後しか画面には残っていない。では、他に越境に対処する方法、愛に対処する方法がないのだろうか。ひとつだけその方法があり、映画においてそれは二度示される。波打ち際=境界に対して水平になって横たわることである。もちろんカメラも波打ち際と横たわるヨンヒに対して水平であらねばならない。けれども、完全に越境を放棄することは不可能だと思われるだろうから、申し訳程度に木切れを砂浜に突き刺して、垂直を維持すれば事足りるということだろう。
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