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蜂の巣の子供たちのotomisanのレビュー・感想・評価

蜂の巣の子供たち(1948年製作の映画)
4.1
 この蜂とは働きバチであろう。彼らは働いて芋を食ってまた働く。働いて食う芋はうまいという。これは、ヤミで暮らして狡すっからいことをしていては分からないそうだ。
 あの頃の芋は今はやりの甘くみずみずしいものと違い水気も甘みもほどほどといったものだった。すっかり名前を聞かなくなった精進揚げのサツマイモである。あの薄甘いのを一枚みそ汁に漬けこんでいただくのが半世紀前、子供時分の楽しみだった。
 食糧自給を余儀なくされる将来、主食の一部は芋になるそうだがどちらの種の栽培が奨励されるのだろう。そんな国難に際しては、食糧ばかりか肥料や燃料なども輸入が断たれることは目に見えている。荷物は人が荷車を引き、材木は人力で動かし、塩田まで復活するかもしれない。農作業の多くも手作業となり、虫食いは避けられず、作物の出来は貧相で味を落とすだろう。つまり昭和23年当時と同じ様相となるが我々もあの子供たちの様に働いて芋が旨く感じられるだろうか。

 映画の冒頭では、子供らについて見覚えがあるか尋ねる一文が入る。あれら子供たちは監督が引き取った戦災孤児であるそうで、映画を見る人の中に親兄弟が居はすまいかとの思いである。果たして成果はあったのだろうか。当時の人もあれは不意を突かれる思いであったろう。劇映画に素人の子供が俳優として現れるばかりか彼らはまさに劇中人物と同じ孤児であるのだから。従って、心当たりのある人はこの映画をただ事でなく見入ったことだろう。彼らの中の誰かにとっても成果はあったのだろうか。
 もうひとつ驚くのは下関で出会う彼ら子供たちが大阪、岡山など生地を離れて、東京やら青森、北陸にまで各地を渡り歩いているとの件である。彼らは今また四国に渡る算段をし、清廉な島村に従ってゆく先々で働いて食いつないでゆく。その間、豊かな農村の野球少年らをその容貌で脅かし、官憲からは浮浪児狩りで脅かされ、その都度島村から自分たちの異様さ、相手が恐れる真っ当さに程遠い事を告げられる。ではどうすればそんな異質さから抜け出せるのか?
 そこで、孤児の先輩島村に従ってゆくことになる。先輩はまづ働くことを告げ、そこで子供たちは芋の旨さを発見する。それは、青森で仕入れたリンゴを北陸で高値で売り飛ばすよりも価値があるというわけでもないだろうが、まだ放浪・浮浪が処罰の理由になる時代、世情も落ち着きを取り戻そうとする中、浮浪児である彼らはいやでも落ち着き先を求めねばならない趨勢であった。そんな中、働いて、たばこも賭け事の手すさびも止めて芋に始まる食い物の旨さに目が覚めてゆく事から、それどころではなかったであろう際どい日々を切り抜ける高揚や大人の鼻を明かして暮らす意気を宥めることを徐々に覚えてゆくのである。

 こうしたあれこれは、おもしろいのか?興味深いのか?と云う言葉では片付かない感じだ。それは、この国が立ち直ってゆくには、彼ら子供たちが立ち直れなければならない事の確信を監督が昭和23年、島村をして山陽道を東遷の道すがら各地で働き、広島の惨状を垣間見せ、神戸の波止場でヤミの売春団をワンパンチで壊滅させながら、子供らばかりか元のヤミの束ね役「アニキ」の立ち直りの機会まで呉れて、意図して作ってゆく、その意思を代理人島村が固めてゆく経緯として示したことを感じて生じる一種の近寄り難さである。
 島村はそれを何かマニフェストとして示すわけでもない。ただ、パンを分け与え、言葉を掛け、動きで示し促される相手の子供たちを待つだけである。しかし、働く場から逃げ出した子たちを追っかけて彼らが小学校の窓辺にぶら下がるのを見てノートと鉛筆を買い与え、野天の寺子屋を始め、さらに断煙協約に至り、子供たちとの関係は統率者のそれへと質的に変化してゆくのが分かる。
 こうしたなりゆきから覚える畏怖にも近い感じの一方、島村にもサイパン島を生き延び帰国船の遭難でも助かったよし坊は救えない。ただ、この命強いのにか弱い子は、ついには自分の力で立ち上がることもできないほど衰え、まるで生きることの裏返しを仲間たちに教えるようにして死んでゆく。彼は生きる未来を見出せず失った母親の懐かしみ一つを支えとするような頼りなさに終始したが、最期、仲間の背中の上で黙って最後の望みの海を見ることなく死んでゆく。この仲間の背中の上が慰めの半分でも満たしていたらと思う。
 もう一人、ゆく当てのない夏木は世界の半分を占める女性であるが、この重きをなさない存在が島村の東遷に従うように渡船場で、被爆地で実らぬ会合を重ねる。神戸の売春団壊滅を経てもついに付け足しの地位から向上しない関係はもとよりその気が監督になかったということかもしれない。とはいえ世界の半分を監督は放擲した素振りながら、それでも彼女を向かうべきところへ導いて行くわけである。しかし、その修道院入りのような姿に何か特筆すべき事を作ってやりたいような煮え切らなさのようなことを感じてしまう。
 思えば、有りがとうさんの事態急旋回でも、徳市の離愁も、小原傳次郎細君の三歩後ろの様子も、明日は日本晴れの二人対二人でもそうなのだ。二人は決して接し合うことはなく互いに一歩一歩詰めてゆく事も覚束ないまま相手を意識し合っていると感じられるのだが、ついに蜂の巣に至って彼女は修道院入りでも果たすような格好で島村に百歩下がって付き従うようになる。子供たちの歓声に掻き消えそうな姿を見るとやはりため息のひとつも彼女に呉れてやりたくなるのだ。

 このように、「明日は日本晴れ」で山河のありしかども、誰もみな疲弊の底に片足を突っ込みっぱなしな内実を垣間見せられたような気がしてならないのと対照的に、この映画はどこか希望のようなものに満ちている。もちろん誰もよし坊のような闇を抱えてはいるはずなのだろうが、子供たちも島村ものべつ歩き、走って働いている。その背景の山河も秋へと急ぐ、あの遠く日を浴びた青山の手の届かぬようすと異なりああもたおやかである。工業化がまだ来ない瀬戸内の景色そのものがまだまだ生きられるぞと励ますようではないか。あの景色がもう実見できないのは仕方ないが、あれらもすべて人が開拓した風景である。今またそれらが方々で野に還ろうとしているが、いつかやってくる危機の時代にはその野から農への復活に生きることをかけて働く子供たちの話が作られるのだろう。
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