櫻イミト

蜂の巣の子供たちの櫻イミトのレビュー・感想・評価

蜂の巣の子供たち(1948年製作の映画)
5.0
忘れられた巨匠、清水宏監督の戦後第一作。戦災孤児たちを引き取り養っていた清水監督が、子供らと作った独立プロ”蜂の巣映画部”の一作目。素人キャスト、オール・ロケで終戦直後の孤児たちをいきいきと描く。スタッフはカメラマンと助監督以外は素人。キネマ旬報ベスト・テン4位。

下関駅に到着した復員兵・島村は出身である大阪の感化院(児童救護施設)「みかへりの塔」を目指す。駅で出会った浮浪児たちは“図星の政”という一本足のボスの元でカッパライや闇市の手伝いをしていたが、島村になついて付いてくる。旅を通して八人の孤児たちは何を得るのか。。。※清水監督は戦前に「みかへりの塔」(1941)を撮っている

驚くべき傑作だった。始めは古い手作り映画かなとタカをくくって観ていたが、子供たちのリアルな姿と大胆なカメラワークに次第に目が離せなくなり、瓦礫の広島が映し出される頃にはすっかり引き込まれていた。クライマックスの山登りの映像には衝撃を受け、ラストシーンでは感涙した。

戦後二年目の日本でオールロケしたロードムービー。映画は長い移動撮影を多用して風景の中の子供たちを、遠くから、近くから、捉え続ける。悲しいほど自由な孤児たちを演じるのは実際の孤児たち。田畑、海、山、瓦礫の街を歩き続ける子供たちの姿を通して、終戦直後の日本の空気を体感する思いがした。

復員兵の島村が広島で家族を失った女性・弓子と語りあう。
「停車場や汽車の中で浮浪児に握り飯やお菓子をやることは、浮浪児のためじゃないんだ。もっと世間全体が親身なものをやってもらいたいんだ」「親身なもの?」「なんて言うかな。まあ、シャレて言やあ愛情・・・」

ここに本作のメッセージが詰まっている。1948年の統計によると、戦災孤児と植民地・占領地引揚孤児は約4万人。その大半は浮浪児となり、乞食、スリ、かっぱらい、さらに暴力団の下働きをする場合も少なくなかった。深刻な社会問題だったのだ。

しかし清水監督は批判的な演出はせず、孤児たちの輝きを描くことに力を注ぐ。悲劇は起こるけれど、子供たちの喜怒哀楽とエネルギーを示すことで、観る者に孤児たちの未来の可能性を感じてもらいたかったのではないか。

「とに角『蜂の巣の子供たち』はゆかいに撮影しました。だから楽しい変った映画だと思います」(清水宏監督)

同年のロッセリーニ監督「ドイツ零年」(1948)も戦後の子供を描いた作品だった。両作とも素人俳優を使った社会派リアリズムだが、子供たちの未来が、同作はネガティブ、本作はポジティブに描かれ、“風と太陽の寓話”と同様に対を成している。

そのロッセリーニ監督を支持し手本にしてヌーヴェルヴァーグが始まったのは1950年代末。本作はその10年前にオール・ロケ&即興演出を成し遂げていることを記憶しておきたい。海辺のシーンの情感のきらめきはトリュフォー監督「大人は判ってくれない」(1959)や、ジャック・ロジエ監督「アデュー・フィリピーヌ」(1960)を連想するが、両作がクライマックスに用意したとっておきの海辺シーンは、本作では中盤の通過点すぎず更にその先へと映画を進めていく。また、アニエス・ヴァルダ監督の即興と移動撮影、ブレッソン監督の”モデル演出(笑)”も、既に本作が理想的な形で実現している。

本作の時点で120本以上のキャリアがあった清水監督による、ヌーヴェルヴァーグの前のヌーヴェルヴァーグ。束縛の無い独立プロで、描きたいテーマを大好きな子供たちと一緒に撮った本作は、全編に自由な風が吹いている。何もかも失った戦後日本を吹き抜ける風の中で、全速力で駆け回る子供たちの姿はまさしく一隅を照らす光だった。宝物のような一本にめぐりあった。

※蜂の巣3部作のソフト化・配信を強く望みたい
「蜂の巣の子供たち」(1948)
「その後の蜂の巣の子供たち」(1951)
「大仏さまと子供たち」(1952)

※一本足の暴れ者”図星の政”を演じた御庄(恩庄)正一さんは実際の傷痍軍人。本作に出演後、「きけ、わだつみの声」(1950)に出演し同作のポスターを飾った。

※本作の存在は映画評論家・佐藤忠男さんの遺作「映画は子どもをどう描いてきたか」(2022)で知った。今後も映画鑑賞の友として携えたい。
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