ワンダフルデイズモーニング

チュンゲリアのワンダフルデイズモーニングのネタバレレビュー・内容・結末

チュンゲリア(2015年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

夢の中にいるのか?
これは自慰的でもテキトーに作られた映画でもない。
いわゆる自主映画的である様相を忌避し続けて産み出された謎の卵のようだ。
粘液に包まれ、路上に落ちている気味の悪い卵だ。そういう映画だ。
よく産みの苦しみというが、映画を作ることはしんどい。そういうニュアンスも含めた、"産み出されてしまった"映画だった。
ところで俺は夢の中にいるのか?


「チュンゲリア」というタイトルからしてなんだか気味が悪い。
なんなんだ"チュンゲリア"って。
調べても出てこない。気味が悪い。

夢についての映画は数あれど、ファンタジックでも悪夢的でもなく、起きて夢見の悪い「いやなもん見たな」という夢の映画はあんまりないように思う。
たとえば夜中のファミレスに入って甘味を食べつつボケーっとしている。後ろの席には女子高生がこんな時間にスマホをいじっている。彼女のテーブルにはステーキセットを食べた後の皿がある。
なぜ?が2、3個浮かぶそういう状況で、甘味を食い終わる。
振り返ると彼女がいなくなっている。テーブルも片されている。
周りを見ると、彼女どころか客席には誰もいない。イタリア語の有線の音量が大きく感じる。そういう時に不意にくる怖い気持ち。
みたいなものが映画にあふれている。

冒頭で主人公だと思っていた女は主人公ではなく、念力先輩(名前うさんくさすぎる)という男が主人公なワケだが、なんだかよくわからない能力で幽霊?を退治する男は、その後の展開で能力を一切使わないどころか、ゾンビ達にただ恐れをなして襲いくる状況に逃げ惑うことしかできない。というか、ゾンビに恐れをなしているのはなんでなんだよ!なんかそういう、ぬ〜べ〜的な立ち位置じゃないのか!?
念力先輩を助ける後輩の女が船頭となって旅のようなあてどない徘徊をする。彼女は要所要所でなんだか難しい話をする。SF的なものに対してかなりロジカルな説明をしてくれるわけだが、全くわけがわからない。高校の化学の時間で先生がしてくれた授業のようだ。「そうなんだろうけどピンとこない」という気持ちのまま、たとえばしつこいほどに長い時間映される彼女の太ももに目がいく。
その太ももや、シャツから覗く胸の膨らみも、エロい気持ちになるのは最初だけで、なんだか生々しいイヤさが去来した。ぷるぷると揺れる太ももは、肉だった。

主人公が冒頭の取り憑かれ女から念力先輩に移り変わるところで、念力先輩のモノローグが入るが、それがまた気味が悪い。喋り方も声のトーンも気味が悪い。内容も気味が悪い。トイレで出くわした友人がトイレのドアを開け、それがゆっくりしまっていく時の音、ウソみたいにギギィイイと気味悪く、そして長い。まぁ古いドアだしねでこちらを納得させない音と長さだ。

一番好きなシーンはその次で、友人と公園で涼んでいるとまた別の知らない友人が来る。そいつは友人に突然口づけをするのだけど、その時に念力先輩のモノローグで「あッ」と声がする。
そのタイミングでパチンと腑に落ちた。
「チュンゲリア」の要所要所に見え隠れする気味悪さ、無視していられなさは、70年代ガロ系の漫画の雰囲気だ。つげ義春や水木しげるや鈴木翁二の漫画を読んだ時の「うっ、なんなんだ」というムードだ。特にチュンゲリアの不条理感はつげ義春の「ねじ式」「夜が掴む」「必殺スルメ固め」を思わされた。カカシが並ぶ田舎道を歩く念力先輩と後輩の2人のショットも、完全にガロの世界だ。
いやしかし、あー、それにつけても、あの「あッ」は完璧に貸本漫画の「あッ」だろう。すごい。すごいとしか言えない。漫画でしか成立しないはずの表現を映画でやっている。

さて。
終盤、それまでの世界の仕組みに異論を唱え物理をひっくり返したでおなじみの物理学者と同じ名前を付けられた亀が森を這い回り小さな池に飛び込み、やがて川を泳いでいく。
アップで映される亀の表面は気味が悪く、動きは鈍い。
そのへん、ゾンビと同じだ。