Lisbeth

心と体とのLisbethのレビュー・感想・評価

心と体と(2017年製作の映画)
4.6
 本作は、年齢差のある二人の間に恋愛が芽生えていくストーリーもさることながら、黒・白・赤を基調とした映像も美しい。単純な恋愛映画に収まらない本作を観て感じたことを徒然と。

 本作を貫く重要なテーマを考えてみると、自ずと「人間=動物」という観点が挙げられる。つまり、観る者は、人間を動物として捉える、という単純だが難しい意識を要請されているのだ。これはありとあらゆる箇所で、様々な手法によって表されている。まず物語の舞台は、ハンガリーの食肉加工場であり、人間と動物が決して牧歌的とは言えない関係性のもとで隣り合う環境である。また、夢の中の森のシーンは、直前までの人間の世界のシーンとシームレスに繋がり、ゆったりとしたテンポ感を映画に加えている。

 序盤で流れる屠殺のシーンは、観る者にストーリーの舞台をありありと叩き込む。屠殺の瞬間に聞こえる無機質な電子音は、聴覚的に人々の直ぐ側に死があるということを訴えかけ、以後のシーンにおいても人間模様が中心に描かれていく中で、その直ぐ側で”あの行為”が行われているのだ、と思い出させるかのように背後で流れている。加えて、牛から流れる妙に鮮やかな赤い血は、視覚的に人間も人間=動物として死すべき者であることを示す。言うまでもないが、マーリアが自殺を試みるシーンではあの鮮やかな赤がフラッシュバックされるのである。東欧らしい無機質な、むしろそれ故に温かいものがより温かく映し出される、白と黒が、赤に加えて、画としての映画に深みを与えている。

 映像の映し出しかたにも、しばしば人間=動物が観てとれる。カメラワークは秀逸である。特筆されるのは、床から1~1.2メートルほどの高さに意識的に置かれる視点である。これらの箇所において、観る者は牛や鹿といった四本足の動物たちの視点に同化せざるをえない。つまり、そこにあるとは知らない死に隣り合う、屠殺前の牛の、あの、視点である。その高さにあるものを想像すればわかることだが、意外だろうか、そこから見えるのは動物的な三大欲求の一つを刺激する尻などの身体である。(尻は特に、掃除女がマーリアの尻を褒めるシーン、雌鹿が森に消えていくシーンに見せる赤い尻など話の各所に散りばめられている。)
 
 人間が"日常"と銘打たれるフレームから動物的な側面を排除して脱動物化していく現代の大きな流れのなかでは、命の有限性や三大欲求、五感といったものが人間=動物を思い直す縁となる。何気ない生活を映し出しているように思える場面も、大抵は食事や睡眠という根源的な欲求に関わる場面なのである。そもそもフレームから真っ先に排除されるような食肉加工場が舞台であることもこのことに関係しているだろう。

 さらに要所での構図・カメラワークも見応えがある。すれ違う二人を映し出す食堂の場面では、透明な配膳ケースを通して二人の距離感が映し出される。
 
 また、美的観点から惹きつけられるのは、二人がエンドレ宅の高さの違うベッドで寝る場面である。ここで、映像は、ベッドの高さの違い故に物理的に相手の様子を探ることのできない二人がシンクロしていることを映し出し、二人が一対の生命体たる必然性を第三者の観る者(だけ)に見せる。この状況を観ることができるのは神の視点をもつ観る者だけなのである。底の知れぬ水たまりに足を踏み込むごとき恋愛特有の心の機微を、つまり第三者的に見れば、徐々に縮まりつつある距離感をこれ以上ないほど巧みに表現しているのだ。

 他にも、エンドレとシャーンドルの関係性は、当初はエンドレが財務部長室から見下ろしたり、階段から見上げたり、と両者の緊張が視線の交差をもとに表現される。しかし最終的に二人はシャーンドルが普段たむろっているピロティーにて友人となる。

 言及すべきはこのように背後に何らかの意味・意図を含んだ映像だけではない。森のシーンの一つで、池の水面に写った情景を反転させてそのまま用いているシーンは、単純にその美しさに息を呑む。もちろんそこに何らかの意図を問うことは有意義である。

 ここまで、視覚的な面に焦点を当ててきたが、この映画では、聴覚的にも訴えかけてくる。というのも、CDショップで店員のおすすめ曲を聴くまで、まともな音楽が流れない。もちろん、序盤の屠殺時の電子音や幽玄な情景を醸し出す背景音楽、テレビの音声、おすすめの音楽に出会うまでにマーリアが聴いた数曲などは流れているのだが、意図的に作られた静寂をwhat he wroteによって破るという演出は禁じ手なまでに技巧的なのである。
 
 ところで、作品の題名『心と体と』に触れて考えてみると、二人、というよりも一対の生命体は、”人間世界”において身体的(最終的にそれは性的接触に至るのだが)交流を、夢の世界で精神的交流をそれぞれ行う。精神分析官が登場するなどフロイト的な無意識観が暗に明に示されており、夢の世界は二人の抑圧されている欲求を表すのだろうと推測される。人間の世界ではそれこそ”神経症的に”規則に従い、対人的なコミュニケーションを抑圧している(/されている)マーリアは、夢で出会うもう一匹の鹿がエンドレだと確信したシーンで救済された笑顔を見せる。これは意識の精神世界を肯定されたことに対する意識的・無意識的な喜びなのだろう。もちろんより深いフロイト的考察がありうるのだと思う。
 
 二人が一対と言えるのは、二人の設定にも関係している。エンドレは身体的欠損を持ち、マーリアは身体的には健常で知能も高いものの、おそらく幼い頃から心理カウンセラーを受けているなど、精神的なチャレンジを受けている。なお、マーリアが自殺を試みたときに左手(=エンドレの不自由な方の手)を傷つけるのも興味深い。
 
 こうして本作のテーマが人間=動物であるとして観てきたわけだが、映画を観終えての第一の感想は、そのメッセージをさも体験型アトラクションを通じて受け取り感じる疲れであった。本作は、視覚的に、聴覚的に観る者に迫り、しばしばその根源的欲求を刺激して(眠くなる映画だということではない)、自らの動物性を再び直視することを促しているのだ。
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