ninjiro

心と体とのninjiroのレビュー・感想・評価

心と体と(2017年製作の映画)
4.5
夢の中にぐらい神秘があってもいいんじゃないか。仕事帰りに買い物に寄った先にも、目覚めて身支度を整えて仕事場に出掛けても、どの過程もどの通り道も、一通り神秘の入り込む余地がないことは確認できた。家に着いて、電気を点けて、決まった量、表示通りのカロリーの冷凍食品の封を何百回と開けたとしても、そこに人の手によるエラー以外の想定外は封入されていない。それは消費者にとっての想定外、エラーが発生したとしても、事業者側としてはその齎らす結果が想定の範囲を超えないようにと何重もの対策を予め施している。寧ろ事業を運営するにあたっての全体計画の中に想定外は通常現実に起こりうる想定外よりも過剰に想定されている。想定されるもの、それを神秘とは呼ばないということは、直接神秘というものに立ち会ったことなどない私達にしても、辞書を引くまでもなく明らかなこと。

人は必ず過ちを犯す。見逃したり、誤魔化したり、或いは恣意的な判断により、そうした過ちを出来るだけ最小に止める為にと、産業革命以前から複数人の眼によるチェック機能を必要としてきた。同じものを同じだけ、誰かに何かを渡すという取引、交易というものが始まった時点から既に平準化というに近い概念が生まれ、それが価値、値踏みというもう一方での概念を生み出す。近年、私たちは誰かの犯す過ちに対して敏感だ。何かエラーがあれば即時過剰に反応し、そのものに対しての価値に対する疑問を呈し、値崩れを起こす前にと想定の範囲内でそのエラーは速やかに排除される。

夢にでも見たことはないか、想定の範囲から駆け出して、将来の十年計画、更新されるそのまた先の十年、果てしなく繰り返される十年先の示す方向を、叶うならば急場凌ぎで頭に備えた角で全部ひっくり返して、全く別の価値を見つけて堂々と生きる事を。分かりやすい特徴を備えていなかったとしても、私たちは一人一人がエラーそのものだ。人の脳の中で生まれるもの、それこそが神秘であり、言い方を変えればエラーである。しかし私たちは、その神秘を日々寄ってたかって虱潰しにすることで生かされている。
なぜあの時、急激に惹かれたのだろう、説明のできない気持ち、怒りにも、苛立ちにも似た激しい迸りは、例えば夢の中でその気配を感じたならば静けさの中に満たされてすんなりと円くなる。姿形ではなく当たり前にその心をまず先に愛せたなら。間違いだらけのすれ違いだらけ、神様はそんな先の事まで知っていたのでしょうか、私はこんな風に出逢ってすれ違ってまた誰かと出逢って想い出して強くなれるんでしょうか、世の中にいつか急激にスマートフォンが普及して個人のエラーがこんなにも露出することまで知っていたんでしょうか。この手元の画面を通して伝わる、同じ夢を見ている、ロマンティックに寝惚けてると言われるかも知れなくても、ほんの小さな寝癖、結んだ髪の束からはみ出した本来は眼にも付かないエラー達、帰り道の買い物、肩をぶつけては俯き、あからさまに空いている電車の座席にしか座ろうとはせず、車両の減速によりよろめいては羽ばたきと共に放たれる美しい羽根のように降ってくる想い、手のひらを上に向けて受け止めようとすれば、小さな雪の粒のように触れるともなく消えてゆく。思い通りにいかないもどかしさ、見た目の姿よりもずっと、表向きの心よりもずっと、この胸の神秘が伝える、あなたの真っ白な神秘に直面したその時の鼓動。
季節を超えて毛が生え変わって、古い角質が降ってくる。お互いに足りない部分をただ補い合うためではなく、そっとあの時のように手のひらを広げましょう。もしも広げる手のひらが足りない時は、また疑いようもなく生まれてくるあなたの為に、私は私自身でいましょう。
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