高橋早苗

地球交響曲 ガイアシンフォニー 第三番の高橋早苗のレビュー・感想・評価

4.8
星野道夫を初めて知ったのも
誰かの言葉からだった

彼の死を伝えるニュース
熊の写真を撮りに行った先で
熊に襲われて死んだカメラマン
その伝えかたに ものすごく違和感を覚えたのを覚えてる


そうして 次に彼を観たのは
亡くなった彼を追う映画
「地球交響曲第三番」だった


星野道夫という人は 写真家として知られているけれど
この映画のおかげで 私は
彼の写真よりも
彼の言葉に
より多く反応してきた


そのファインダーを覗き続けた眼が
捉えたアラスカを
言葉でもって知らせてくれる
その彼の言葉に


ネット上に たくさんの情報が転がってることは知ってる
それらすべてが
見た人の聞いた人の語る人の
フィルターを通しているってことも

そう書いている私だって
フィルターかけて彼を観ているってことも


ただもう 私はもう
“ミチオ”のことを
悲しさや寂しさでもって
受け止めたくないんだな。


だから
またこのタイミングで
何度でも 彼の言葉に出くわすんだ



彼が 森の生き物の中で一番
熊に惹かれていたこと

熊が人を襲うニュースに触れて
どこかホッとするという その感覚


クリンギット・インディアンの長老から
熊と人間の間の子を差す
「カーツ」という名を授かり


その名の通りに
死んで熊になったのは
私には 仕合わせてるとしか思えない

他の誰かから見たら
“熊に襲われて死んだカメラマン”
だとしてもね。



☆☆★

(2004.5.4 東京ウィメンズプラザ)


今日は泣きが入るだろうな~

と思えばその通りで。
泣き疲れるほど。


開演前、KNOBさんとニアミス。
静かなオーラ。


太鼓と
笛と
ディジュリドゥ
KNOBさんは三回、笛を吹いた。
彼に届くよう、空を見上げてるように見えた。


沢山のことを思った筈なのに、言葉として出てこない。
涙だけ。

・・・この映画に出てくる人は皆、大切な人を失う痛みを知ってる。
そして、自分ひとりの世界の時間の流れと同じに
宇宙サイズの時間の流れを(無意識か意識的かはわからないけど)感じている人ばかりだ。



☆☆★

(2004.8.8 東京ウィメンズプラザ)


 「故 星野道夫に捧ぐ」
・・・初めて観た時から、
何度この言葉に
この想いに出会って来ただろう。


彼と出会った一人一人の言動の総てが
この想いに繋がっているように見える。
映画の中だけじゃなく、ね。


皆がそれぞれのやり方で彼の死を受け止めていて。
それこそ彼の言うとおり
 「ひとつの正しい答えなど初めからないのだ」
と。


『親友の山での遭難を通して、人間の一生がいかに短いものなのか、そしてある日突然断ち切られるものなのかをぼくは感じとった。私たちは、カレンダーや時計の針で刻まれた時間に生きているのではなく、もっと漠然として、脆い、それぞれの生命の時間を生きていることを教えてくれた。』(「旅をする木」)


☆☆★

(2012.10.13 日比谷コンベンションホール)


撮影を予定していた人が突然いなくなったことを告げ、映画は始まる。
ザワザワと心を波立たせられて、これ以上この話を聞いていたらオロオロしそうなタイミングで、
カメラはフリーマン・ダイソンを追ってカナダ・ハンソン島へ飛ぶ。

初めて観た時には分からなかったこの構成が、今ならよくわかる気がするから不思議だ。

・・・フリーマンとジョージのことは、さらっと触れただけで終わってしまうけど
ここから「宇宙船とカヌー」につながったからね。


改めて解説を聞いていると
ミチオとジョージとナイノアは同年代なのよね・・・
フリーマンの、深いけど、どこか楽観的にも聞こえる言葉は
未来を信じているんだな、と思わせてくれる。


ここにいない“ミチオ”を追う旅・・・
彼が心惹かれたアラスカの人々をカメラは捉え、皆それぞれに彼を語る
そこに、悲しむ気持ちはあるけれど、誰もが、彼を近くに感じているようで
・・・軽くうらやむ気持ちさえ持ってしまうから不思議。

自分が、何に対して泣いているのか、わからなくなってくる。



この映画を初めて観た頃
私には「死」は遠いもので、近く感じるような出来事もなかった

今は、ボブ・サムのくだりや
ウィリー・ジャクソンの言葉が
遠い遠いアラスカの誰かの言葉、ではなく
ずっとずっと、確実に、近い。


『魂を語ることを
 怖るるなかれ』
…どこにいても、どことでもつながっていると考えられるなら。

ずっとずっと、楽に
「ココに」居られる。
高橋早苗

高橋早苗