このレビューはネタバレを含みます
評論家でも何でもないから好き勝手楽しめば良いはずなんだけど、アカデミー賞って名前が強すぎてこういう時は映画観てて良いんかなってなる。
正直全然合わなかった。
事前の情報で観る前も少し不安はあった。
音楽はCMで聴いていた分良い雰囲気なのは分かっていたけどそこだけ。
何よりまず、どこに対してもどんな種類の驚きも無かった。
人以外の生き物との交流も、愛情のやり取りだって、既存の映画たちで散々みてきている。
主人公のイライザが耳は聞こえど声を発することができないというのは新鮮だろうか、全く同じ状況ではないにしてもリトルマーメイドを連想するのに苦労はしない。
むしろ声を出せないことの理由付けでみれば、リトルマーメイドの方がファンタジーらしさという点で受け入れやすい。
今作で明かされる理由ではそれこそただ物語のために用意された設定という印象が強く、人物が生きているという感覚になれない。
入り込めなかった一番の原因もイライザだ。
彼女自身や周りの人の反応をみるにイライザには感情や物事に対して素直であるという性格があるように思えたが、これがやりすぎ、または私のひねくれのせいで彼女を嫌いになってしまった。
魚人と出会わなくたって周囲には自分に寄り添ってくれる人々は居たではないかと、それでも魚人と出会って初めて私の心と通う可能性を感じたと、そう言うのか。
自分が周囲を顧みずに心を閉ざし続け、魚人との出会いに自分を重ねて感情移入しただけではないか。
私の目には彼女が初めて自分が施す側に回れる関係に酔っているようにしかみえなかった。
それは冒頭から念押しされた自慰行為に表れるように、どれだけ良好な友人関係を有していても埋めることのできなかった孤独を解消する唯一の方法として彼女が求めていたもののようにもみえる。
特に家に招いてから関係を持つ流れには、年上の人間が無邪気な子供を性的に弄ぶ不快感がある。
家に連れ出す過程もそう。
魚人が人間とは違うという理由で見捨てては、私たちも人間ではない、イライザはそう言ったはずだ。
それなのに魚人が猫を殺めても、ジャイルズを傷つけても大きな咎めはない。
既に魚人は特別な存在で先刻の言葉など詭弁だったのではないか、疑いが芽吹く。
また部屋を水で埋める行為なども、周囲の人々をあまりにも無視しているように思える。
タイトルと部屋を水で埋めるという行為から、イライザの心は形の定まらないもの、形の無い何かでしか埋めることができない、そしてそれによって隅々まで満たされなければならない。
そういう見方もできるはずだ。
部屋という形はそのまま彼女の心の壁であり、扉を開ければ水は流れ空白が生まれる。
つまり彼女の心は彼女の内側からしか満たすことができない。
そう捉える向きもあり、そう捉えてしまったばかりにやはり彼女に傲慢を感じますますげんなりして行ってしまう。
こうなってしまってはこの映画に愛だとか美しいだとかいう気持ちはもう持てない。
もちろんここまでに書いたことなんかはある意味加害者の理屈。
今作に組み込まれた意図に対して、いじめはいじめられる側に問題がある、という論を展開しているような気もする。
それはこの映画としては全くの見当違いな見方になると思うが、
被害者は被害者であり続けることで共感を得られない別の存在に変化し得るし、謙虚は過ぎれば卑屈に卑屈を過ぎれば一見謙っていても傲慢に足る。
現代の世相と、以前から変わらずの違うという種々の問題に対する風刺を、時代を超えて自然に緻密に張り巡らせた再現性と表現力によって作品を完成させた監督はさすがだと思うが、演出とは別に暗いものが見え隠れしている気がする。
結局映画としては合わなかった。
もっとエンタメでキャッキャしてる方が性に合っているのかも知れない。