レインウォッチャー

シェイプ・オブ・ウォーターのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.5
ギレルモデルトロの季節③

劇中、イライザ(サリー・ホーキンス)が指でなぞるバスの車窓の表面をつたう雨粒。ふたつの水滴はまるで踊るように流れ、やがて惹かれあってひとつになる。その揺らぎは蜂蜜を万華鏡に落としたような光の中に溶けていく…

Shape of Water、「水の形」とは即ち「愛そのもの」であると、デルトロ監督は言う。その言葉は、上記の余りに美しい場面(※1)でこれ以上ないほど視覚化されていて、その「定型のなさ」「隔たりのなさ」がテーマとしてもこの映画を河のように一定のリズムで緩やかに流れている。

イライザは、若さきらめき誰もが憧れる…とは言いづらい清掃員の女性で、さらに失語症である。そんな彼女と、半魚人(※2)との恋。ときけば、ともすれば露悪的なものにきこえるかもしれないけれど、それは違う。

声を持たないゆえに社会から無視される彼女だからこそ気づいた、「彼」の美しさ。誰かを好きになる行為はある意味好奇心の延長だから、彼らが惹かれあって独自の共通言語を作るプロセスは実はとても普遍的なものだ。この細かな歩み寄りの積み重ね、深いグリーンに統制された画面に時折アンバーが差すとき、小さい花弁の綻びを感じる。これは、これ以上ないほど純粋なロマンスに他ならない。

やがて彼らは水中で触れ合うのだけれど、人の目も重力も届かない、隔てなくそこにいるものを包む水が伝えるエンパシー。おそるおそる互いに触れる様は初心な男女同士と何ら変わりなく、その労わりには確かな敬意があって、「あなたがそこにいる」幸せを語っている。

イライザの協力者となるのは、隣人でゲイの画家、同僚の黒人女性、研究所に勤めながらロシア側のスパイでもある博士…というように、誰もが(特に'60年代という時代背景上)この場所においてアウトサイダーであり、イライザに限らず「声なき」人々だといえる。

それに対し半魚人を虐待し解剖を急ぐ研究所の所長ストリックランド(マイケル・シャノン)は、まさに権威と傲慢の権化のような白人男性である。男根の聖なる象徴のように警棒を振り回し、女や部下には盲従のみを望む。
しかし、物語が進むにつれて彼もまた大きな仕組みの中のちっぽけな一つの歯車に過ぎないことがわかってくる。彼の自我はもはや体制やプライドといったものに食い尽くされてしまっていて、ひとつの正解のもとにしか動けないのだ。(彼はその身に合わなくなった自分の指すらも捨ててしまうことになる)

そのことから考えると、この物語は「画一的な型にはめる」「分断する」という抑圧的・支配的な考え方に対して、愛=水、連帯が持ち得る力を描いているともいえるだろう。

それを下支えするのは、やはりデルトロ監督が一貫して持つ「異なるもの」への畏敬に近い念。彼の作品では常に現世と異界が並列なものとして描かれていて、まさに水面に線を引くのが無意味であるように、そこに優劣や隔たりはない。
だからこそのこの結末なのだろうし、驚くほどHappily ever afterだった。官能的でいてピュアで、もちろんグロテスクでもあり(人の性愛なんてどれもグロい)ながら堪らなくかわいらしい、愛すべき一編。

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この二日ほど熱を出して伏せってしまったのだけれど、熱にぼうっとなった頭には繰り返しこの映画の開幕のシーンがまわっていた。ゆらゆら沈んでゆくベッド。
その他どのシーンも好き、といえるくらい愛している作品なのだけれど、唯一「猫がひどい目にあう」のでそこだけは注意かも。

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※1:ここで甘く流れるのはマデリン・ペルーが歌う『La Javanaise』、もともとはフレンチポップの大御所セルジュ・ゲンズブールが「究極のラブソング」として書いた楽曲。そういえばセルジュって魚ぽい顔してるな。

またここに限らずアレクサンドル・デスプラによるスコアが全編うっとりするほど素晴らしく、まさに水面を隔てた向こうで鳴っているような音。耳に残るテーマ曲を始めバンドネオンやハープの音がどこかヨーロピアンな風味も醸し出す。

※2:デルトロ映画なので、当然CGではなく生身の俳優(ダグ・ジョーンズ)がスーツで演じている。完成に3年かかったというこのスーツ、どこかで見たことあるなあと思ったら『真・仮面ライダー』('92年に作られた大人向けライダー)に似てる気が。