せいか

ボヘミアン・ラプソディのせいかのレビュー・感想・評価

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
1.5
テレビの金曜ロードショーで試聴。音楽がメインだからだろうが、なんとエンディングカットなし。
劇場で公開が始まった当時、国内でも世代に関係なくかなりの話題性を持っていた作品である。気にはなっていたが、何せクイーンをよく知らないので、重い腰を上げることはなかった。

クイーンというかの有名なバンドを、特にフレディー・マーキュリーを主役に置いて伝記的にドラマ化した作品だが(映画作品として成り立たせることが優先されているため、ある程度事実とは異なる箇所がいくつかあるようである)、先述の通り彼らの音楽がメインなので、とにかく音楽が随所に流れる。ある種のミュージカル的に引用されている。
貧しい、異民族的に疎外されてきた男、そしてバイセクシャル(とはいえ、好きな相手にあなたはホモセクシャルよときっぱりと言われてしまうのだが)の男、エイズにかかって死ぬことになる男、そしてアメリカどころか世界を巻き込んだバンドの一員だった男を主役にしているのだから、彼の現実をシナリオに取り入れて現在にもある問題を(そして現在では進んだ意識として着目されているような問題を)ここぞとばかりに描いている。そのへんの都合が現代社会にとっては良い題材だったんだろうなあとはいささか思ってしまうところはあるが、なまじ現実に存在した人物を扱っているので、このへんは結構観ていて複雑さは抱きもする。彼の現実を捉えて描くのに、これはそういう意味ではどう評価できるのかと思った、という意味で。
シナリオ自体は本当に、言ってしまえば作り手の思惑が分かりやすすぎるくらいだし、言葉を濁して言えばシンプルで、クイーンやフレディーというでかい吸引力ある存在と曲のおかげでなんとか形を保っているところはある気がする(実際、かなり高度な物真似の出来ももてはやされている側面があったように思う)。話の進行に合わせて絶妙にそことマッチするような音楽が引用されるの連続のようなもので、「音楽ありき」「音楽で表現できればいい」ということなのかもしれないが。
クライマックスのライブシーンが本作で描いてきたことの集大成となっており、ライブのナンバーも、ここまで歩んできた彼ら(特にフレディー)を表現するのにかなり綺麗に合致しており、素直に感動する盛り上がりとなっている。この流れでエンディングに『ドント・ストップ・ミー・ナウ』を持ってくるのは痺れる。
と、いった感じで、全体を通して普通に面白く視聴してはいたが、世代だった人、ファンの人が本作で大いに盛り上がるのは分かるが、そうでもない人たちまであれだけ引き寄せたものが何だったのかはイマイチ分からなかった。ああしたひとりの男の孤独なりなんなりを描くというところでは琴線しびしびするほどのものはなかったかなあと思うというか。なんだかそんなくだらないところで引っかかってしまいはした。

それで、最初に書いたように、私はクイーンそのものに疎いため、なんとなくメロディーは聞き覚えがあった曲たちの歌詞がああも暗さを持っていたとは気付きもしなかったため(『ドント・ストップ・ミー・ナウ』の印象がこれまで強かったので、私の中ではクイーンに暗さのイメージがなかったのだなとも気が付きもした)、本作を通してクイーンの音楽に興味を持ちはしたので、今度じっくりいくつかの曲を聴き直したり、原文の歌詞を読んでみようと思った。そのその上で、暗さが熱狂的に受け入れられた背景や、フレディーやその周囲の人々が持つ時代性の上での特性に面白みを感じもしたので、たぶん、そういうことを描くことを本作はしたかったのたろうかなあとも思いもするものたが。
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