蛇々舞

ボヘミアン・ラプソディの蛇々舞のレビュー・感想・評価

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
3.5
ノれない予感があった。

たぶん、この映画は自分には合わないんだろうと。

ドンピシャリ。
客席に座りながら、なんだか居心地が悪かった。

バンド、クィーンの伝記映画なのかと思いきや、フレディ・マーキュリーの映画。
いや、フレディ・マーキュリー“だけ”の映画だ。
そして、それは恐らく意図的な構造なのだ。

いちおうクィーン結成から物語は始まるのだが、それら歴史を追った展開は、その実、終始フレディの内面を向いている。

それを象徴するのが冒頭のシーケンスで、ライヴ会場へ向かう彼を、猫の視点で、恋人の視点で、なによりバンド仲間の視点で“追う”という形態が採られていた。
つまり、“偉大なるフレディ・マーキュリー”としてでなく、“人間フレディ・マーキュリー”を知る者たちの視線が切り取られている形である。
これすなわち、あらゆる人々が目の当たりにしたフレディ・マーキュリーの、真実の姿を直視せよ、という観客へのメッセージに他ならない。

自らのルーツに悩み、性的嗜好に惑い、愛を追い求め、葛藤し苦悩するフレディ。
いつしか音楽の方向性さえ見失い、落ちぶれるまでが詳細に描かれる。

映画の最後には、そこから脱却する。
音楽こそ自分の居場所と自覚し、ライヴ会場にて、彼は再起するのだ。

果たして物語的な盛り上がりとリンクしての、ほぼ丸々再現となったライヴシーンは圧巻の出来映えで、興奮も必至。

まさに体感型の映画。
理屈や表現の巧拙を超え、否応なく肉体と魂を焚き付ける、新しい表現技法なのだろう。
クィーンを知る人も知らない人も、諸手を挙げて受け入れる理由が、よく解る。

正直、観終わった後に「良いものを観たなぁ」という感慨はあった。
同時に「これは映画館で観なきゃ意味が無いな」とも。

でも個人的には「こんなもんか」という感じ。

フレディ・マーキュリーその人が、いかに孤独を抱えてたのか、っていうのは痛いほど良く解った。
その行き着く先として、20分のライヴシーンがとても効果的に作り上げられていたのも良く解った。

しかし、それ以外を、あまりに切り捨てすぎなのではないか。

実の家族も、クィーンの他のメンバーも、メアリーも、あとなんだっけ、ぽっと出の恋人になるナイスガイも、なんかフレディの人生に「なんかいるよね」くらいの存在感しかない。
彼らが“居た”のは歴史的事実なのかもしれないが、その“事実”に寄りかかりすぎて、それらを血の通った人間として描き出す努力が、あまりにも足りないんじゃないだろうか。

それらの登場人物がフレディと絡むシーンには、いずれも「ストーリーに必要な部品だから撮った」以外の意味付けが見受けられなかった。
どれも脈絡がなく、「こういうことですよ」と説明的。
それが、まるでパッチワークのように切り貼りされているせいで、展開よりも作り手の作為が前に出ていて、いちいち集中を削がれてしまった。

映画の仕組み的には、フレディを見守る人物らの視点と、映画を観ている観客の視点がライヴシーンで重なる、ということだったんだろう。
繰り返すが、冒頭から「視点に注目せよ」という鑑賞上のヒントは与えられていた。

でも、それならそれで、彼ら一人ひとりに感情移入する機会を与えてほしかったのが正直なところだ。
最後の最後まで、「なんか一方的に顔を知ってる近所の人 」くらいの愛着しか持てなかった。
そんなヤツがスクリーン上で、主人公の晴れ舞台にウルウルと感激の眼差しを送っていたところで興醒めもいいところだ。

要するに、そんな全体的なイビツさが、自分には受け付けなかった。
「グレイテスト・ショーマン」と同じで、作品としては楽しめたが、映画としては全く気に入らない。
まぁ今回は予めハードルを下げていたので、落胆は、ほとんど無いのだけれど。

とはいえ、主演の演技は素晴らしく、これだけでも観た甲斐があったと言える。
他の登場人物らも、それぞれ良い雰囲気を醸し出している。
願わくは、彼らのことも、好きにならせて欲しかったなぁ……。
蛇々舞

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