すがり

ボヘミアン・ラプソディのすがりのネタバレレビュー・内容・結末

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

えーおー。
えーーーーーーーーーおーーーー。

ドゥ、ドゥ、ドゥ、ドゥッドゥドゥードゥドゥ。

ある日映画館で遭遇した予告から漂う名作の匂いに一発でやられてしまった。

queenは世代から外れていて本当に有名な曲を知っている程度で、
タイトルにもなっているボヘミアンラプソディ何かは初めて聴いた時は、あのクイーンを失った男と同じ感想でさすがに長くない?と思っていた。

映画で言ったら3時間から4時間くらいはある。
ソフト版の指輪物語かよ。
内容に関しても段階で全く曲調が変わるから、正直置いていかれたという気持ちが拭えなかった。

でもこれが不思議で何度も聴いている内にハマっていってしまう。
今回の映画によって自分の中でも改めて決定的な曲になったと言える。

映画自体も初めから大いに期待をかけて観に行ったももの、きっちり期待に応えてくれる最高の体験になった。
劇中でも再三言われていることだけど、クイーンは単なるバンドという集合体ではなくひとつの家族として昇華されているわけで、
その意味で映画もフレディにスポットを当ててはいても前進する際には必ずクイーンとして前進させて行く丁寧さがあり、
そのお陰もあって映像では掘り下げられない他のメンバーたちもそれぞれが個々でありひとつのクイーンとしてキャラが立つことになっている。

私はバンドマンでもなければクイーン自体のファンとして生きてきたわけでもないので、今作の曲作りがどういう見え方をしているのかは分からないが、
序盤クイーンとして初の契約を結ぶ場面で「君たちには個人としても才能がある」というセリフがある中で、実際にそれぞれが能力を発揮しながらクイーンを作っていく流れに感じ入ってしまった。
他の映画ならそんな念押しはくどいと感じるところ、それで出来上がるのがあの楽曲たちなのだからそこには感動しかない。

そして何よりもこの映画がクイーンの伝記ではなく、フレディ自身の伝記でもなく、映画におけるフレディ・マーキュリーというキャラクターの人生を描き切ったということにも感動がある。
この、物語としての人生が非常に強力だった。
旅立ち、苦難、帰還、太古の黄金比にも則している。

帰還の中にはクライマックスという意味も含めて特に心震わす名場面がある。
エイズの診断を受け病院を去る間際、待合の少年の発したえーおーに短く応えるフレディ。
あの瞬間少年は何もかもから解放されたに違いない。
あの瞬間世界は平和で、いかな困難を目の前にしても臆さずにいられる温かみに溢れている。
またフレディ自身も、あの瞬間に何があろうと自分はフレディ・マーキュリーであるという確認と了解を得て、腹を括ったと信じられる。

そういった段階があるからライヴエイドの時点ではもう、映画の観客であってもライヴエイドの参加者であるし、クイーンの家族という大きな力の一部であるに疑いはない。

まずボヘミアンラプソディを弾き始めるフレディに対しブライアンが目を向ける。
これが実際の証言を基にしているかどうかは私には判断つかないが、それでもクイーンに対する映画の解釈であり最大のハイライトと言うに足る。

ボヘミアンラプソディは言わずもがな、最初の契約を切られ、初動に大失敗し、多くの批評にさらされた世間的な失敗作だった。
それをこの大一番の一発目に持ってくる。これにどれだけの意味があるのか。

ことこの映画この瞬間において、ボヘミアンラプソディはクイーンの体現であり自分たちの何もかも。
改めて表に立ったクイーンの強烈な自己紹介に他ならずその存在の高らかな宣言でもある。
俺はここにいる。俺たちはここにいる。
全身全霊で受け入れ、またそれに応える。
あの時間の全ては最大限の肯定を得ている。

その一瞬の目線でボヘミアンラプソディはあらゆるものを包み込んだ。
フレディは常にクイーンであり続けたし、それは他のメンバーも同様で、クイーンも最初から常にクイーンだった。

ボヘミアンラプソディという映画タイトルが単に代表曲だとか、奇抜で気を誘いやすい曲だとかいう観点の産物でないこともはっきりと伝わる。
クイーンやフレディの伝記を作るならそれこそタイトルはクイーンで良い。
この曲がタイトルにあるからこそ、今作はクイーンを下敷きにあくまで映画としての構成を持つ物語であるという意志が見え、完成度の高さをより表している。


その他にも諸々のセリフや字幕に度々感動をいただいた。

フレディの言う私はパフォーマーだと、そういう言葉が特に胸に残る。

ただ曲を作るでも、ただ歌うでもない。
曲と歌と、それを最高の状態で人々に届ける最高の演出があって、それらを一手に引き受けまた成功させるのが自分の、クイーンの理由だと。

かつて見ていたアメリカンアイドルという番組でアダムランバートが同シーズンを優勝することになるクリスと共に、クイーンメンバーの演奏でwe are the championを歌っていたのを覚えている。
そのシーズンだけは通しで見ていてアダムのパフォーマーとしての力に何度も圧倒されたのも記憶しているが、そうであればこそアダムがクイーンに誘われ実際にライヴをして回ることになるのは必然だったに違いない。
これらもあってパフォーマーとしてクイーンを完遂したフレディに対する情調がより沁み入る。

アダムにしろ今回の映画にしろ、時代に逆らうでもなく流されるでもなく、それでもいつまでも大きくあり続けるようなクイーン。
その当時に自分が無かったというのは悔しい気持ちもあるが、今もなおこうして色褪せずに追うことのできるその存在や時代に感謝しながら、今後もありがたく楽曲を楽しんでいきたい。
すがり

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