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リュミエール!のgejiのレビュー・感想・評価

リュミエール!(2016年製作の映画)
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ナレーションで出てくる「映画は最初から世界へと開く窓だった」というのはフランスの、あるいは西欧にとっての窓であって、被写体となった世界にとっての窓ではない

リュミエール社のカメラとフランスの人々がエジプトやパレスチナを覗き見ることはあっても、エジプトやパレスチナの人間がフランスを覗き見ることはない。

一方的な視線は支配的なものだ

言い換えるならば「映画は最初から植民地者の目だった」


『リュミエール!』という映画自体も非常にフランス中心的だ。
フランスの生活やリュミエール家の人物たちに対しては寛容で温かなナレーションをつける一方で、ヨーロッパの端のスペインや中東、ラテンアメリカなどに対しては雑な描写に加え、「不可解」や「不思議」といった言葉を繰り返し、映像の中の人物やできごとを貶すような解説をつけている。

自文化を世界最高と称える一方で、他者の文化は「不可解」「不思議」「異国情緒」とレッテルを貼り、理解する気などさらさらない、その必要もないという態度だ。
それが19世紀末の帝国主義全盛期、リュミエール兄弟が生きた時代のフランスで支配的な態度であったとしても、その態度を無批判にそのまま21世紀で再生産している。

かろうじて植民地主義に触れているのは、旧フランス領インドシナ、現在のベトナムで撮影された「寺院の前で小銭を拾う安南の子供たち」であるが、ここでも「今では植民地主義の正体を暴く衝撃的な作品である」と、どこか他人事のような語り口だ。
植民地主義の正体を構成していたのはフランスであり、フランスが生んだ映画という技術もその正当化の一端を担っているにもかかわらず、「正体を暴く」などと英雄化している。

日本の描写には少しマイルドなナレーションが付けられている。他の地域では単に(まるでそれが普遍的な印象であるかのように)「不思議」「不可解」と言っていたところを、「西洋人には不思議な世界」と、相対的な印象として語っている。
フランス人のナレーターの頭の中に、帝国主義的な世界の序列があるのだろう。


資料としては非常に興味深かったが、描き方は非常に問題だらけな映画だ
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