嫌いじゃないです……ッ!
面白い、です……ッ!
でも……!
でもぉ……っ!!
っていう感じ。
そうですか、これが最後のX-MENなの。
面白いヒーロー映画を観た気持ちは、あるんですよ。
ミュータントたちの戦いぶりも生っぽくてワクワクするし。
マイケル・ファスベンダー演じるマグニートーが、特にカッコいいんですよね。
列車を潰すシーンとか、ただ拳を握りしめるだけなのに、なんであんなに絵になるんだろ。
はー大好き。
正直、ミスティークとクイックシルバーが思ったほど活躍しなかったのは残念だったけど、まぁ、そこは2人とも前2作で輝いてたから、しゃーない、役割分担てことで。
ドラマにも無理がなくて、冒頭でミュータントたちが受け入れられてるからこそ、終盤の展開が効いてる。
「俺の息子がファンなんだ」って言うオジサンとか、「信じてたのに……まだ信じていたい気持ちもあるのに……」っていう葛藤が見えて凄く良かった。
ラストのチェスのくだりも、「おっ、パトリック・スチュワートとイアン・マッケランみたいじゃん」なんて、ほっこりしてしまったし。
ここまでシリーズを追ってきたものとして、いろいろ思い出したりしつつ、楽しめる映画でございました。
……いや、でもですよ。
なんで作ったん?
壮大なる蛇足じゃんか、これ。
フェニックスやりたかったのは、わかる。
ファイナルディシジョンという大駄作を生んだことが、トラウマになってるのも、わかる。
でもさぁ、それって前作のアポカリプスで浄化できなかった?
最後にジーンが解き放ったのは、紛れもなく内なるフェニックスだったじゃないの。
「フェニックス」と呼ばれこそしなかったけど、あれでジーンの覚醒ってことにして良かったんじゃないの?
それどころかアポカリプスで内なる力を解放しちゃったもんだから、今回は仕方なくフェニックスの力の源を謎の宇宙パワーにしてもうてるやないか!
外部から取り入れた力って、それもう本人の資質とか関係なくない?
別の、アポカリプスの感想文にも書いてるんだけども、ここに来るまでのX-MENシリーズって、社会的マイノリティを描く映画群だったんですよね。
肌の色とか性別とかの“個性”を超能力として表象し、社会から迫害される中で、ミュータントたちが自分の能力と向き合う姿を描いてきたんです。
でも今回、フェニックスの力を「外からの影響力」に変えちゃってるので、そのテーマが使えないんですよね。
それは製作陣も自覚してるので、今回の話は「自分の才能を、どう使うか」って内容になっちゃってる。
平たく言うと、以下の通り。
「犯罪を犯す人と犯さない人の違いって、なーんだ?」
「ないかも!」
「犯罪に走っちゃう人って、環境に問題があるんすよ」
「じゃあ、どうすれば犯罪せずにいられますか?」
「もし、犯罪を犯しちゃったら、どうすればいいですか?」
以上。
これを語る映画としては、まぁ、悪くない出来ですよ。
でもなぁ……差別、関係なくなってるんだよなぁ……。
最終作だってのに、ここまで語ってきたテーマを引き継げてねぇよ……!
あるいは、もう、その方向性で語ることがなくなっちゃったのかもしれない。
もしくは、「差別はいつか無くなる」という前提のもと、シリーズ最後にして「マジョリティもマイノリティも等しく直面する問題」に焦点を定めたのかもしれない。
しかし、しかし……!
やはりX-MENといえば、被差別者であるミュータントたちが、世の理不尽に抗って立ち上がる様というのが魅力的だった。
超能力を蔑まれる人たちが、時に自分達を排除する社会を、それでも救おうとする姿が、他のヒーロー物語と一線を画していたのである。
現実に密接にリンクし、リアルな問題提起をしつつ、胸のすくような理想がフィクションとして描かれる……。
その、ヒーロー映画としての最大の魅力を敢えて排除したにしては、いま少し振り切れていなかったように思う。
そもそも路線変更をするには、長いシリーズの最後の一作だけで試みるのは、いかにも性急すぎた感がある。
とにもかくにも、「やっぱりフェニックスをメインに据えた物語を、きちんとやり直したい!」というクリエイター側の都合が先行した結果、不器用な構造の映画になってしまったのではないか。
ファイナルディシジョンもアポカリプスも忘れて、ダークフェニックス単体を評価するなら良いエンターテイメントだが、X-MENの総決算とするには、だいぶ肩透かしであった。