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『ミツバチの谷』に投稿された感想・評価

犠牲と信仰の物語である。
フランチシェク・ヴラーチル監督作品。
『Marketa Lazarová』に続くヴラーチル中期の歴史映画であり、同作の制作費がペイ出来なかった為、衣装を使い回す事を前提として制作された作品である。

ヴラーチル中期作品の特徴として、「体制に制限される個人」を描写している事が挙げられよう。
特に本作の発表された1968年、チェコスロバキアでは"プラハの春"が起こっており、これは其の儘本作でのチュートン騎士団=社会主義政権を示唆していると考えられる。
本作で主役を演じたペトル・チェペクが、同国がビロード革命を成し遂げ、チェコ共和国とスロバキア共和国へ別れた翌年、其れを見届けたかの様に亡くなっている点にも留意されたい。

本作は禁欲的キリスト教世界(=社会主義体制)に於ける『節制』とは何か、をテーマとしている。
曰く、『自由や愛と云う物は、信仰や制度に因って阻害され得るべき物なのか、また其れを他人へ薦める事は、尊いことなのか否か』である。
自身の回答は控えるが、ラストシーンでオンジェイがチュートン騎士団へ戻り孤独を噛み締めた事は、図らずも現実に"プラハの春"がワルシャワ条約機構により鎮圧され、チェコスロバキアにソ連軍駐屯地が設置された出来事にも重なって見える。

当時ヴラーチルが祖国の解放運動をどう見ていたのかは知り得べくも無いが、個人的には本作が彼の心境を最も如実に現しているのではないか、と感じる作品である。
["持たざる者"についての物語、フランチシェク・ヴラーチル特集④] 88点

13世紀のチェコを舞台にしたのは、恐らく前作「マルケータ・ラザロヴァ」で用いた同時代への膨大な知識があってのことだろう。そして、これも前作と同様にキリスト教を中心的に扱うことで、ある種「マルケータ・ラザロヴァ」と双対をなすとも言えるヴラーチル中期の傑作である。

地主である父親が自分と同じくらいの少女を後妻として迎える結婚式から始まり、彼女にコウモリの死骸入り花籠を送った主人公アンジェイは父親に首元を掴まれて石壁に投げつけられる。中々衝撃的なオープニングである。父が神に祈ったことで助かったアンジェイは父の宣言通りドイツ騎士団に送られ、親友アルミンと共に少年→青年へと成長した。ある日、仲間の一人が脱走に失敗したのをきっかけにアンジェイは脱走し、アルミンは彼を連れ戻すために領地を離れる。

領地を出て以降アルミンの喉の渇きが止まらないとの描写があるが、これは信じていた義兄弟のアンジェイがキリスト教的な禁欲生活に嫌気が差して脱走したことに起因するキリスト教への渇望の表れである。やがてアルミンはアンジェイと出会うものの拒絶され、アンジェイはアルミンを置いて地元に戻ってしまう。そこでは父親が猟犬に噛まれて死亡したせいで、肉を食べることすらままならない生活を送っていた。

猟犬は何を象徴するのだろうか。肉を食べるには猟をする必要があり、それには猟犬が必要だ。つまり、猟犬というのは社会における"力"の象徴であり、それが"抗えない力"に結びつく。ドイツ騎士団では猟犬を持っているのに魚を食べ、最初の脱走者は捕まった上で猟犬に食い殺され、領主を失った谷では猟犬を失ったのだ。そこへ戻ってきたアンジェイは残された義母と愛を育む(キリスト教的禁忌)と共に、ミツバチと猟犬を用いて谷の"力"を回復させてゆく。

そこへアルミンは戻ってくる。アンジェイが逃げたこと、義母と結婚すること、谷の神父が教会への寄付を条件にその結婚を容認すること、などドイツ騎士団の教義及びキリスト教的禁忌のオンパレードで自らの信仰すら危うくなるのを既のところで留める。神父はアルミンに対して"騎士団の領地に戻ればキミの言う信仰は守れる"と言い、より下界・俗世に近い教会が生き延びるために何をするかは勝手であると説く。これによってアルミンの信じていた最も純粋な形のキリスト教というものが実は個人の欺瞞レベルに身を窶していることに気が付く。絶望したアルミンは尚もアンジェイを領地に戻そうと城へ赴き、結婚式に参加するが、やはり彼を許せなくなり、義母であり妻であるレノーラを殺害する。これに怒ったアンジェイは彼を城の広場に残して猟犬を放ち、アルミンは食い殺される。冒頭で死んだ脱会者と同じ末路である。ついに下界での崇高な信仰という理想主義は破滅してしまった。

しかし、アンジェイはドイツ騎士団の領地に戻ってくる。ヴラーチルが「マルケータ・ラザロヴァ」でとったアンチキリスト教的立場に双対をなすラストであり、誰も居なくなった思い出の浜辺に膝をついて祈るのだ。父のことだろうか、レノーラのことだろうか、アルミンのことだろうか、谷のことだろうか、それともヴラーチルが未来のチェコに託した願いなのだろうか。

本作品でもキリスト教を社会主義に例えることが出来る。社会主義の最もプリミティブな姿は原始時代におけるコミュニティであり、理想としては誰もが生きるために働いて暮らすというものであるが、資本主義を経験してしまえば"持てるもの"が持てなくなるというのは恐怖でしかなく、成立し得ないというのが容易に分かるだろう。ドイツ騎士団の領地では理想主義的なユートピアが実現していたが、あれはそれを信じる人間が集まったから実現したわけであって、下界では通用しない。製作された当時はプラハの春の真っ只中であっただろうから、実現不可能な理想主義を押し付けていた社会主義に対する批判なんだろう。しかし、結局"持たざるもの"は理想でもなんでも"平等な"社会を理想に掲げて実現に奔走するしか道がない。最初から何も持っていなかったアルミンは理想主義にすがるしかなかった。そして、愛する者を全て失ったアンジェイが帰る場所は最早"ミツバチの谷"ではなく"ドイツ騎士団の領地=Hope Land"しか残されていないのだ。

シェイクスピアに似た重厚な悲劇であり、キリスト教に絡んだ映画の"劇性"という観点からベルイマンや黒澤と並び称されるヴラーチルであるが、そんな評価もあながち間違ってはいないだろう。私としては前作「マルケータ・ラザロヴァ」の持つ異様なパワーが好きなので点数も伸び悩んでしまったが、本作品も世界の並み居る強豪と戦いうる素晴らしい出来だった。