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さらば青春の光のマコトのレビュー・感想・評価

さらば青春の光(1979年製作の映画)
4.6
知る人ぞ知る、有名?カルト映画?をデジタルリマスターにて初観賞。正直言って、こんな内容とは予想してなかったので、ちょっと真面目に考えてみました!1984年生まれの僕には全然リアルタイムな映画ではないので、頭でっかちかもしれませんが、頑張ってみます(笑)


1.あらすじ

主人公は十代の青年ビリー。彼は、当時流行っていた、所謂モッズ。
昼間は広告会社のメールボーイ、雑用でこきつかわれうだつが上がらない日々を送っていたが、週末の夜に友人たちと集まり、ロックにあわせてダンスや、安物ドラッグに夢中になり、憂さ晴らしというよりはそれにしか生き甲斐を求めてない。
ビリーは、彼に惚れている女の子もいるけど、パーティーにやってくるステフという女の子に片想い。ビリーはチャラチャラしてるけど、根は以外と純情な青年なのですね。
ある日、お風呂屋?で隣でうるさく歌うやつがいたので、ビリーはそいつと小競り合いになるのだが、そいつは軍隊帰りの幼なじみケヴィンだった。再会を喜ぶふたりだったけど、旧友はビリーたちモッズの宿敵ロッカーズだった。


2.ベビーブーマー、スウィンギング・ロンドン

ビリーたちは、1960年代に十代の後半を迎えてることから、ベビーブーマー、団塊の世代であることがわかる。劇中、パーティーのシーンでザ・フーの『マイ・ジェネレーション』が流されることからこの物語は1965年10月以降と思われることからも予想できます。
第二次世界大戦後、復員してきた兵士たちはまず家庭を築いて、そして、その子供たちが大量に生まれて、人類史上最大の世代人口となっていきました。それが、ベビーブーマーで、彼らが青年期をむかえるころには巨大な人口を背景に大きな消費者層になった、それが戦後の若者文化になっていきました。
イギリスではその若者文化が、スウィンギング・ロンドンという文化的ムーブメントになっていきました。
スウィンギング・ロンドンは非常にチャラチャラとした、明るくポップなムーブメントで、女の子のファッションはミニスカート、ボブカットに代表されるような伝統から解放され、音楽ではビートルズやザ・フー、映画においては「アルフィー」や「007」に描かれているような、雰囲気を醸し出していたそうです。「オースティン・パワーズ」や「ミニオンズ」に描かれているイメージなのかなと、僕は個人的には思います。
その文化の渦の中にモッズとロッカーズはあります。
モッズというのは、モダーンズの略で、米軍おろしたてのフィールドコートに、細身の三つボタンスーツやフレッドペリーのシャツ、ベスパやランブレッタを乗り回して、パーティーに明け暮れてるような若者たち。ザ・フーがモッズのシンボルとなっていたそうです。
対して、ロッカーズというのは、革ジャンとブーツ、トライアンフやノートンの所謂カフェレーサーというスタイルのバイクを乗り回してた若者たちで、「乱暴者」のマーロン・ブランドが見本となっていたそうです。ちなみに、ビートルズもハンブルガー時代はロッカーズスタイルで、メジャーデビューする際にモッズスタイルに変えたそうです。
共に若者たちの流行なのですが、やはり対立は避けられないほどの差異があると思いますね。


3.モッズとロッカーズの対立

その両者の対立は、劇中何度も描かれます。
例えば、道路上で会えば機動力に劣るモッズはロッカーズに囲まれてしまいます。ただ、早々と決定的な対立にはならず、まるで子供の口喧嘩程度で彼らは収まりますが。

普段のビリーは、俗物の両親や姉、雑用ばかりの仕事にうんざりしながら、自分の部屋の壁にモッズに関する新聞記事やピート・タウンゼントの写真を貼ってまた次の週末のことばかりを思って過ごしてます。そして、その憂鬱を救うもの一つが、ドラッグなのです。どうも彼は他の友人たちと違って、憂鬱と焦燥を抱えているようです。その原因は若さだけなのでしょうか。彼は旧友ケヴィンに
「普通はいやなんだ、みんなと同じはいやだ。」
「俺は大物になる。ロッカーズとは違う。」
と言います。

ある週末、いつものようにパーティーに出掛けていく途中、ビリーの友人の一人がバイクの故障で立ち往生していると、ロッカーズの集団に囲まれ小競り合いから激しく暴行をうけてしまいます。
それを知ったビリーと仲間たちは仕返しとばかりに街へ飛び出して行く。そして、街ので二人組のロッカーズを見つけ襲いかかるり、そのうちの一人を捕まえ集団で暴行します。しかし、その彼はビリーの旧友ケヴィンでした。
それに気づいたビリーは、思わず仲間を止めようとしますが、勢いずいてしまった彼らは聞く耳を持ちません。ビリーは何も出来ず一人逃げ出してしまいます。
家へと逃げ帰ったビリーは、旧友を陰惨な目に会わせてしまった恐怖と嫌悪で気滅入っているのだが、そこで彼の帰りを待っていた父親に
「お前は心が安定していない。」
「群れなければ何も出来ない。」
と、叱責されるのだけど、ビリーはヘラヘラ笑いそれをまともに受け止めない。
翌日、ビリーは二日酔いと憂鬱で仕事を無断欠勤する。


4.フリーシネマ

イギリスという国は、貴族階級と中産階級と労働者階級に分かれた階級社会で、その間は非常に硬直していた。その厚い壁に対して、1950年代に怒れる若者たちというムーブメントが起こり、映画界では『フリーシネマ』という形になったそうなのだが、それに革命を起こし社会を打倒するのではなく、不服従という戦いへとなった。そして、それが第二次世界大戦からの経済的復興と発展と繋がり、既存の伝統の解体、不服従へと昇華したのが、スウィンギング・ロンドンなのだと思います。
それと、イギリスで起こった『フリーシネマ』、フランスの『ヌーヴェル・ヴァーグ』などが、アメリカに影響を与え『アメリカン・ニューシネマ』となりました。

この映画の主人公ビリーは、非常に弱々しく、刹那的に流されていく主体性に欠けた青年ですが、心のなかにある憂鬱や焦燥は、『アメリカン・ニューシネマ』の主人公たちに近いと思います。ただ、彼は主人公として決定的に欠けていることがあるんです。


5.ブライトンの暴動

ビリーの憂鬱はひどくなっていくき、それはもはやドラッグでしか癒せなくなってきているみたいです。だけど、そんな日々の中でも、イギリスのリゾート地・ブライトンで開かれるフェスを心待ちにしています。そこには、イギリス中のモッズと、ロッカーズたちが集うのです。
そのブライトンで楽しむため、そして憂鬱を癒すためにビリーは必死になって、より良質なドラッグを買い求めますが、なかなかてに入らず、危険なドラッグの元売りにも会いますが、上手く騙されてしまいます。そして、ついに薬局で盗難を犯して、ドラッグ(覚醒剤)を手に入れます。

そして、待ちに待ったブライトン。
そこでビリーは、彼らのアイドル・エース(スティングが演じてます)に出会い、有頂天になります。またその日の夜、ダンスクラブで思いを寄せるステラに声をかけ、彼女をダンスに誘うのですが、彼女はエースのことしか見ません。そこでビリーは彼女の気を引くため、ダンスクラブのエントランスからダイブするのですが、それが原因で追い出され、一人寂しく浜辺を一晩中うろつくことに。

翌朝、食堂で仲間たちとビリーは合流するのですが不機嫌。しかし、友人からステラが一人であるのを聞くと、再度猛アタックをしかけ、いい雰囲気になったので、気を良くして仲間たちとフェスのパレードに出掛けます。そこで他のモッズたちと一体になったのを感じて、さらに気をよくしたビリーは、別の食堂で屯っていたロッカーズたちに襲撃を仕掛けます。そして、その食堂をも破壊して騒ぎは、暴動へと発展していきます。
その暴動が浜辺まで達し、警官隊と牽制しあっていたとき、襲撃の仕返しに来たロッカーズたちも加わり、暴動さらに発展していよいよ取り返しのつかない流血事件になっていきます。

だけど、この時ビリーはステラと二人、路地裏へと逃げ込み、暴動をそっちのけに結ばれます。

ビリーは常に戦わず、逃げてばかりなのです。

何人も逮捕者が出て、暴動は鎮圧されますが、そこへそろそろと出て来たビリーも警察に捕まってしまいます。護送車の中でロッカーズに囲まれたビリーは急にしおらしくなりますが、そこへエースも収監されてきたので、また態度が変わります。護送車の中で、ビリーはエースからタバコを貰い、妙に誇らしげです。

6.時計じかけのオレンジ

裁判を終え、帰宅したビリーだが、暴動に参加したこと、隠していたドラッグを見つけられたことで、ものすごい剣幕の母親から
「出て行け。お前はもう息子じゃない。」
と言われ家を追い出されてしまいます。
その時、彼は言います。
「俺は姉さんみたいにいい子じゃないんだよ!」
と。もしかしたら、彼の憂鬱や焦燥というのは、描写されないが優秀な姉と比べられ続けられたコンプレックスからなのかもしれないですね。

家を追い出され、憂鬱と焦燥がより酷くなり、無断欠勤や暴動のことで呼び出された職場で、衝動的にビリーは暴言をはき散らし、仕事を辞めてしまう。

仕事をやめ、退職金でドラッグを大量に買うため仲間たちが集う食堂へ行くビリー。そこで、暴動でエースと共に逮捕され裁判を受けたこと、仕事をやめたこと、退職金でドラッグを大量に買うことを自慢気に仲間たちに見せるが、誰も気にしてくれない。それどころかビリーが思いを寄せるステラは、仲間の一人と付き合っていた。あまりのことに、彼はその仲間に殴りかかってしまう。

雨に打たれ濡れ細り、家のガレージで隠れ、両親が不在になってから、自分の部屋に戻り家出のための荷造りをするビリー。壁に無邪気に貼られた新聞の切り抜きや写真を破り捨てる。
ステラによりを戻そうと声をかけるが、全然相手にしてもらえず、慟哭しながらバイクを走らせていると、郵便配達車と事故を起こしてしまい愛車までも失う。みんなビリーに冷たい。
ここで、一つの映画を連想しました。

「時計じかけのオレンジ」です。

この映画は、構造が前後半二部構成に近い三幕構成で、それ自体が「時計じかけのオレンジ」と同じになっていて、後半の展開はそのものになっています。

「時計じかけのオレンジ」という映画は、元々この映画でも描かれているブライトンでの暴動(実際の事件は1964年5月18)から着想を得ていて、主人公アレックスたちのコスチュームもモッズたちからインスパイアされています。
アレックスはビリーよりも凶暴ですけど、どちらも不良青年で、事件を起こし警察に捕まる。そして、刑務所と裁判所の違いはあるが、元の生活に戻ろうとすると、家を追い出され、周囲に人間たちからも冷たくされる。その姿は、惨めに憐れに描かれ、前半部での所業を忘れ思わず同情してしまう。
ただ、「時計じかけのオレンジ」には強烈なメッセージが表層されるけど

個人VS国家だ。


7.英国病とマーガレット・サッチャー

「時計じかけのオレンジ」は、暴力的なまでに自由な個人・アレックスと、冷酷で醜悪に抑圧する国家の物語へと進んでいく。悪徳とより巨大な悪徳を比較しているんですね。それは、人間も国家も信じていないキューブリックの冷たい皮肉なのでしょう。
「さらば青春の光」にそういった政治的なメッセージは出てないが、「時計じかけのオレンジ」に似せていることによって、どうしても根底にそういったメッセージを隠しているような気がします。

なので、ここからの話は僕の勝手な深読みになりますので、よろしければ。そして、ここから先はラストへネタバレしていきます。


















1960年代のスウィンギング・ロンドンの支えのひとつに、“ゆりかごから墓場まで”をスローガンにしたイギリスの高福祉政策があったのだと思います。生活への様々なセーフティネットが、様々な冒険的活動へ向かうことの安心感を保障し、将来への明るい希望を持ちやすくしていたとおもいます。そういったことがあの時代の楽天的な空気を産み出していたのではないでしょうか。
しかし、次第に膨らむ社会保障費や、頻発する労働組合によりストライキ、産業保護により国際競争力の低下などにより、特に1973年のオイルショックによりスタグフレーション化などにより、失業率が増加し経済成長が低下、そして財政が悪化していった。これは、“英国病”と呼ばれていました。
1976年には財政破綻し、緊縮財政へと傾き公務員の給与抑制へと向かうのだが、同時に社会保障制度維持のため税率も高まったのです。
1978年から1979年にかけて、公共サービスの労働者によるストライキがあって、公共サービスが低下した。これは“不満の冬”と呼ばれたそうです。
そんな状況の時に、1979年5月、財政再建、国有企業民営化、規制緩和、いわゆる新自由主義を掲げ首相になったのが、マーガレット・サッチャーです。
サッチャー首相は、公共インフラなどの民営化、所得税、法人税の大幅引き下げ、そして労働組合の弱体化を次々と断行していった。そして、27%もを記録したインフレーションを抑制することに成功した。
しかし、失業率は下がることはなく、なおも増加し続けた。

実は、英国病は幻影だったのではないのかと、今では言われてます。その理由についてはここで話すには、まだ僕も不勉強なので、はしょります。

「さらば青春の光」が公開されたのは、1979年9月19日です。この映画はそういった空気の中で作られた映画なんです。


8.この映画は、本当にスウィンギング・ロンドンを描いたのか

ビリーは家を追い出され、仕事も辞め、仲間たちにも見捨てられます。傷心の彼は、一人列車に乗って、今となっては唯一明るい思い出のブライトンに向かいます。

実はこの映画は、この後半だけでなく全体に陰鬱で閉塞感に包まれています。
スウィンギング・ロンドンの映画たちはもっと明るかったのではないでしょうか。
まるで、アメリカン・ニューシネマのような殺伐とした空気が漂っています。まるで、未来への希望が示されません。

もしかして、この映画は、1960年代を舞台として設定していますが、描かれているのは1979年のイギリスそのものではないでしょうか?
僕はこの辺りでなんとなくそう思いました。


9.ベルボーイ、マイ・ジェネレーション

楽しかった思い出に浸りながらブライトンの街をふらふらと歩くビリー。ステラと結ばれた路地にも行きますが、逆に嫌なことを思い出してしまいまた憂鬱に襲われてしまう。
必死にそれを振り払い歩いていると、高級ホテルの前で銀色に輝くスクーターを見つけます。
エースのスクーターです。

憧れのエースがいる、彼ならいまの俺を救ってくれると思い、ホテルへ近づいて行った時、エースがホテルから出て来ます。
実は彼は、このホテルのベルボーイだったのです。

ビリーがケヴィンに
「普通はいやなんだ。」
と言った時、ケヴィンは
「俺もお前も変わらない。みんな同じだよ。」
と言いました。あの憧れたエースも、メールボーイだったビリーとなんらかわらない労働者階級の一青年だったのです。

崩れていく幻想と、鳴り響くザ・フーの『ベルボーイ』。ビリーは思わず、エースに向かって叫びます。騙したな!といわんばかりに。

みんな現実と折り合いをつけて、楽しんでたんです。ビリーだけがわかってなかったんです。彼だけは、まだ純情で、子供だったんです。
ビリーの子供時代、青春の光は終わったんです、この瞬間に。

絶望したビリーは、エースのスクーターを盗み海沿いの岸壁へ疾走していきます。そして、岸壁を沿うように、死に場所を探しているんです。

ザ・フーの『マイ・ジェネレーション』のなかに「年寄りになるまえに死にたいぜ。」という有名な歌詞があります。ビリーは、まさにその歌詞のように良かった思い出と共に死のうとしているんです。

そして、ある崖に向かってスクーターを走らせていきます。そして、崖を飛び出すスクーター、宙を舞い、海岸の岩に叩きつけられ砕け散るスクーター。そこに、ビリーの姿はありません。そして、エンドロール。

もし、この映画がアメリカン・ニューシネマ的なラストとして描いているのなら、ビリーはきっと死んでしまっているでしょう。あるいは昇天なのかもしれませんね。


10.ダニー・ボイルとケン・ローチ

あるいは、崖を飛び出す直前にスクーターから離れビリーは生きてたとします。
でも、その先の彼の未来は明るいのですかね?

80年代になり、失業率はなかなか下がらずイギリスでも、格差は広がるばかり、それは新自由主義のもたらす必然でもあります。
何も持たない彼はどうなるんですかね。

それを思いめぐらしてみると、ビリーはもしかしたら少ないチャンスをつかみ生き方を変えていくかもしれないですね。「トレインスポッティング」のように。
もしくは、しがない労働者として生きて切り捨てられ貧しくなって行く。ダニエル・ブレイクのように。
それか、そのどちらでもないかもしれません。

「さらば青春の光」はそんなことを考えることのできる、とても深みのある映画だとおもいます。

非常に長くなってしまいましたが、ここまで読んでいただけたら、すごく嬉しいです。ありがとうございました。
マコト

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