YasujiOshiba

ローラーボールのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

ローラーボール(1975年製作の映画)
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アマプラ。24-74。これは思い出の作品。どうして印象に残ったのか。やっぱり音楽とジェームズ・カーンのかっこよさ。バッハの「トッカータとフーガニ短調」、レモ・ジャゾットの「アルビノーニのアダージョ」がめちゃくちゃ耳に残っている。そして、怒り肩のカーンの優しい表情と一途な行動のギャップが、なぜか心に残るんだよね。

もうひとつは70年代にテレビで見たローラーゲームなのだろうけど、こっちはそのSF版。どこか懐かしいのもあるけど、今回見直しても、けっこう強烈。本物のリンクで本当に体を張ってスケーティングして、体当たりしているからだろうな。バイクを爆発させ、本物の火を燃やす。

そしてパーティのシーン。まるで『甘い生活』のような朝方、着飾った男女が未来の拳銃を手にして庭に出ると、その銃で、笑いながら、庭の美しい糸杉を焼き払ってゆく。ああ、こんなシーンがあったんだ。あの燃える糸杉はきっと本物を燃やしたのだろう。ものすごくシュール。

そうそう、モード・アダムスもいたんだよね。このころのアダムスって『007黄金銃を持つ男』とか『ダイヤモンドの犬たち』で何度も出会っていたっけ。すごい美人なんだけどクールで得たいがしれないところがたらない。そんな印象だったっけ。

冒頭からローラーボールのシーンがよい。なんといってもあのリアルなセット。あのリアルな大きさ。そこで丹念にゲームのないようを描いてゆく。内容は、ローラーゲームとアメリカンフットボールをミックスしたようなもの。そしてそれは、戦争がなくなった時代の代理戦争。熱狂的なファンはほとんどゾンビのように騒ぐだけで、人間としては描かれない。

そこでは世界は企業となる。企業のいいなりの人々、つまりは企業的従順が人間的エートスとなった世界。ところが、人間的であることを望んだジョナサン/カーンだけが、この予定調和されたゲームにアノマリーなものを持ち込むことになる。

このアノマリーがゲームを激化させてゆく。組織はジョナサンの欲望と取引することを目論むが、ジョナサンの欲望は交換可能なものではない。仲間のために戦うこと。いかに美女であれ、他の女とは交換できない、自分がそのときに愛したその女を取り戻すこと。そこがポイントなのだ。

こうなると組織は、ゲームのルールを変更し、脅迫し、過酷な条件の中での交換可能性を模索する。ようするに、相手を軍事的に圧倒しておいて、こちらに有利な休戦条件を引き出そうというのだ。

だから東京とニューヨークでの死闘もすごい。組織がルールをどんどん変えて、ジョナサン/カーンをなにがなんでも引退させようとする。できれば死んでもらってもよい。にもかかわらず、自己の固有名と交換不可能性というただそのためだけに、ジョナサンは戦い続ける。

ウェバーに言わせれば、ジャナサンはその戦いなかでどんどんカリスマを獲得してゆく。個人によるカリスマ的な権威を前にするとき、組織による合理的な支配/権威は危機に瀕する。それまでは過去を消去して、歴史を遡る系譜学は合理的な支配の根拠となる論理の基礎を揺るがす可能性を断ち、疑問を持たない個人の制御された欲望を満足させながらも人を交換可能な道具ととして、官僚主義的・コーポレート的な支配を完徹してきたわけだけど、たったひとりの男の反抗によって、その支配の壁に小さな穴が開いてゆくというわけだ。

未来社会は戦争も何にもなくなって、誰もがドラッグをのんで企業様の言いなりに生きているという設定なんだけれど、きっとこれは、ベトナム戦争を裏返した合わせ鏡のような70年代のアメリカの姿なのだろう。

そういえば、亡きロジャー・コーマンの『デスレース2000』も同じ頃だってはず。こっちも映画館で見たっけ。いやはや、このあたりはドキドキしながら見た青春の映画。おっと、今度はコーマンの追悼でそっちも見ないと!
YasujiOshiba

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