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痴漢通勤バスのろくのレビュー・感想・評価

痴漢通勤バス(1985年製作の映画)
3.3
「おくりびと」ですっかり日本映画の重鎮風になっているけどもともとポンコツエロばかり撮っていた監督だからな、滝田。

80年代の軽薄さが滝田の映画にはお似合いである。出てくる女子も性にたいしてあっけらかん。そこにあるのは70年代のある種「情念のポルノ」だったロマンポルノとは正反対だと思う。

そもそも70年代は「戦う相手」がいた。何か正しいことを追うべきだ。貧困とは、平和とは、人間らしさとは。だから常に70年代は「怒っている」。でも80年代になると?浅間山荘事件なんかがその頂点だと自分は思っているが(あるいはポルポトや文化大革命)そこにあるのは「正しい」を追い詰めた結果正しくなくなってしまった残骸だけだ。結局「正しい」なんてないんだよ。そんな声が聞こえてくる。

だから80年代の(特に滝田洋二郎を中心とした)ポルノはひたすらに「くだらなく」なってくる。それは80年代的な「生き方」かもしれない。そもそも「何もない」のに追い求めるくらいなら最初から「何もない」でいいんだよ。そう言ってへらへら笑う滝田の姿を思ってしまう。

バス会社が潰れそうだとからとあっけなく風俗バスの路線変更するこの作品を見て僕は笑う。もう何もないじゃんこの作品って感じなの。そしてその笑いこそが80年代に大事にされていたものじゃないかとも思うんだよ。

最後にいたっては全ての価値の元である「貨幣」すら相対化される。そこでは「別にいいじゃん、生きているんだから」と滝田が笑っているような気がした。思えばこの映画が撮られた1985年はバブル真っ盛りだ。そんなバブル時代に滝田はバブルの欺瞞性(中身は空っぽだって話だよ)を見ぬいていたのではないかと思う。そう、実はなく、虚しかない世界だということを。

「虚」の世界でシリアスになるのはきつい(それは本当に大変だ)。だから滝田は軽薄になる。中身もなく、それでも楽しい世界を描く。でもその後、バブルが崩壊したあとに「虚」でも「実」(本当)はあるんだと言って「おくりびと」を滝田は撮った。滝田はこう語っている(と勝手に理解している)。

「全てが虚でも「死ぬこと」だけは真実だ。「死」だけは誰にも平等に訪れる」


※この「虚」の世界はポルノからその後AVへ移行していった。その最たるものはSOD(ソフト・オン・デマンド)だろう。でもこの映画の内容は「常に性交」や「ぜつりんバスツアー」の萌芽的なものである。高橋がなりの先陣を切っているのが滝田洋二郎だと思っている。
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