The Uninvited(英題)を配信している動画配信サービス

『The Uninvited(英題)』の
動画配信サービス情報をご紹介!視聴する方法はある?

The Uninvited(英題)
動画配信は2024年5月時点の情報です。最新の配信状況は各サイトにてご確認ください。
本ページには動画配信サービスのプロモーションが含まれています。
目次

The Uninvited(英題)が配信されているサービス一覧

『The Uninvited(英題)』が配信されているサービスは見つかりませんでした。

The Uninvited(英題)が配信されていないサービス一覧

Prime Video
U-NEXT
DMM TV
Rakuten TV
FOD
TELASA
Lemino
ABEMA
dアニメストア
Hulu
Netflix
クランクイン!ビデオ
JAIHO
ザ・シネマメンバーズ
スターチャンネルEX
みるアジア
WOWOWオンデマンド

『The Uninvited(英題)』に投稿された感想・評価

ukigumo09

ukigumo09の感想・評価

3.4
1969年のヴィットリオ・デ・セータ監督作品。イタリアのシチリア島パレルモで貴族の家に生まれた彼は建築家になるためにローマで勉強していたが、イタリアに撮影に来ていたジャン=ポール・ル・シャノワ監督『Le Village magique(1955)』のアシスタントをするなどして映画の道に入っていく。彼が最初に手掛けたのは10分程度のドキュメンタリー作品で1954年から1959年にかけて10本作られている。シチリア島やサルデーニャ島で撮影された彼の作品はカジキマグロ釣りに出かける漁師や地下の硫黄鉱山で働く坑夫、農作業をする人々や羊飼いなど、文明社会から離れて厳しい生活環境で生きる住民を、ナレーションを交えず淡々と描くドキュメンタリーである。しかしその映像のリズム、環境音、音楽が詩的な印象を与える。これらのドキュメンタリー作品を撮ったデ・セータに対してマーティン・スコセッシ監督は「詩人の声で語る人類学者」と評しているが言い得て妙である。
1961年には最初の長編劇映画『オルゴソロの盗賊』を撮る。これは慎ましい生活をしていた羊飼いの男が殺人の嫌疑をかけられ、弟と共に逃亡生活をし、結果的に盗賊になってしまう話だ。飾り気のない映像表現や題材はドキュメンタリー時代から地続きで、似た名前のヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画史的不屈の名作『自転車泥棒(1948)』と似たストーリー展開ということもありネオレアリズモ映画の直系に当たる作品だ。
続く『半人前の男(1966)』は精神を病んだ作家の物語で、現実、記憶、妄想、夢がごちゃ混ぜになった展開で、それまでのデ・セータのリアリズムを主体とした映画文体とは大きく異なるが、フェリーニ監督にユング派のエルンスト・ベルンハルト博士を紹介したというエピソードのあるデ・セータなので精神世界への関心を全面に出した作品と言えるだろう。

長編第3作としてフランスで撮られたのが本作『L'invitata』だ。パリ郊外を舞台としたこの作品は、アンナ(ジョアンナ・シムカス)が出張から帰って来た生物学者の夫ローラン(ジャック・ペラン)に起こされるところから始まる。彼はなぜか若い女性ローナ(ローナ・ヘイルブロン)を連れてきていて、夫の言動や彼女の微笑みからアンナは2人が仕事上の関係を超えていると察知する。浮気を認めた上で夫から奇妙な愛の告白をされたアンナは家を飛び出しデザイナーとして働く職場のオフィスで一夜を明かす。朝になり、建築家のフランソワ(ミシェル。ピコリ)がやってきて起こされる。仕事の打ち合わせで南仏まで行く予定だったフランソワはコートダジュールで友人と会う予定のアンナを車で送っていくことにし2人の旅が始まる。雪に覆われた北部の悪路で夜に車が立ち往生し、灯りを頼りに立ち寄ったお店のパン職人やフランソワの友人の彫刻家(ポール・バルジェ)との出会いはロードムービーの醍醐味だろう。旅を続ける中で雪景色が荒涼とした工業地帯になり、暖かく日差しの強い南仏へと変わっていく。それはアンナが強いショックを受けたことから悲しみに変わり、次第に束縛からの解放を考えるようになるという心情の変化と似ている。風景だけでなく、仕草や視線、ちょっとしたリアクションなどセリフに頼らない内面の描写は詩的な雰囲気を醸し出す。

フランソワの方は傷ついたアンナに対して父性的で保護者のように接していたが、旅の間により深い感情を抱くようになる。しかしこの映画ではクロード・ルルーシュ監督の『男と女(1966)』のような艶っぽいロマンチックさを巧妙に回避している。アンナは友人に会えず、フランソワの実家の電話を使うよう誘われて彼の家に行くのだが、フランソワの妻からすれば夫が謎の若い女を連れてきたことになる。冒頭で夫に愛想を尽かした原因となる身振りを今度は自分もしてしまうという円観構造は愛や結婚生活への皮肉だ。この作品以降、デ・セータ監督は劇映画を撮らなくなってしまったが、2023年は生誕100年ということで発見、再評価される良い機会だろう。