カラン

七番目の道づれのカランのレビュー・感想・評価

七番目の道づれ(1968年製作の映画)
5.0
アレクセイ・ゲルマンは2013年に亡くなった。74歳。6本の長編を完成させた。が、最後の『神々のたそがれ』は未完の遺作であり、完成させたのは妻と息子である。そして6本の内の最初のもの、それが本作『7番目の道づれ』(1968)であるが、名義は共同監督となっている。共同なるものの領分の詮索は権利と利益について考えたい人に任せればよい。およそ芸術は共同だ。ゲルマン本人やタルコフスキーが声高に語る創造の責任の所在としての単独の映画監督というのは、半ばポーズである。芸術の核心からするならば、脚本を兼ねた映画監督とても7番目の道づれに過ぎないし、ゲルマンやタルコフスキーは表面的に言っていることとは裏腹に、制作においては芸術の核心にこうべを垂れているのである。

本作は、1920年頃、斜陽の貴族ら有産階級を代表する白軍と労働者を代表する赤軍との内戦を舞台にしている。

『リア王』をベースにした黒澤明の『乱』(1985)で仲代達矢が演じた秀虎は、行き場所を失くして心神喪失に陥り、ゴーストとして漂泊するが、本作『7番目の道づれ』の全てを失くした主人公はユーモアを保存しており、こちらのライフスタイルのほうが超高齢化社会の日本にはふさわしい。

主人公は社会変革で大きな独り住まいを、人民住宅委員会の男に摂取されて、爺さん婆さんから小さい子たちまで皆んな集めてきたような大家族に乗っ取られる。ここは自分の家だと委員会の男に言い張るも、男はカフカ的な不条理の気配を出しながら新しい法律を盾に取ろうとするが、我らが主人公は法律家である。しかし論破しかけたところで、小さい子供が湧いて出てくる泣き落としにあう。欲しいといった覚えもない表情で時計を抱えて、寒波の漂泊は続く。

謎の理由で囚人であったのが、謎の理由で釈放されて、通路の先の真っ白い光に同化していく長回しで捕捉されようと、ピーター(池畑慎之介)にユーモアを譲ってしまわない主人公の道行きは非常に感慨深いものがある。

ミザンセヌはすきだらけなように思えるが、飄々とした主人公のゆとりを表しているのか。諦観ではなく、ゆとり。死ぬことは分かっているのだが、豊か。フレーム内を分析する価値がありそうだ。






自宅隔離の戦争③
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