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七番目の道づれの文字のレビュー・感想・評価

七番目の道づれ(1968年製作の映画)
3.7
 何気にレンフィルムの映画を見るのは初めてだったかもしれない。クレムリンの鐘の音と「労働者とコルホーズの女性」が冒頭で映し出されないのは少し寂しい気もするが、しかしながらピョートル大帝の騎馬像も悪くない。そしてアレクセイ・ゲルマン監督の作品を見るのも初めて。
 グリゴーリー・アローノフとの共同監督であるものの、同氏の初監督作品。同名の小説が原作とのこと。ちなみに原題は«седьмой спутник »なので直訳すると第七衛星といったところだろうか。レンフィルムのシンボルピョートル大帝からの冒頭赤軍のアジりには驚かされるものの、全編を通してとても静謐で、穏やかな作品だった。赤軍と白軍の争い、銃撃すら静かに感じた。能弁がよく伝えるとは必ずしも限らないことを教えてくれる。もっともそれが観る者にロシア的哀愁を喚起する。
 冒頭で若干クセ強いアジった説明が入るものの、第一次世界大戦からロシア革命に至るまでの背景知識をざっくりと持ち合わせていると話はつかみやすいように思う。「ユデーニチを倒せ!」というポスターの言葉。舞台は1918年の冬のペトログラードとのことなので、まさにロシア革命直後と言っていい。ソヴィエト憲法成立後の話。
 帝政ロシアからソヴィエトへの移行期、時代に翻弄され、周縁化された帝政ロシアの旧エリートを描く。もちろんその存在形態は複雑であり、彼らの多様な在り方が示される。閉ざされた室内空間で先行きが見えない中繰り広げられる舌戦は、なぜだろう悲哀を漂わせながらもどこか滑稽に見えた。祝祭的時間。
 しかし悲しいかな、ロマノフ朝の残滓たるあの牢獄から埒外に放り出された主人公アダモフにもはや居場所はどこにもなかった。彼は閾に在ってしまった。コムナルカに変貌を遂げていたかつての自宅から置き時計を持ち出すも、最終的には半ば捨て去るような形で時計を道端に置き、彷徨したのちに牢獄へと戻る。エリート特有の悩みとももしかしたら名指すことができるかもしれないが、それを差し引いてもなお彼はひどく愧じていた。あるいはイチジクの葉の下、アダマの塵。ふざけんなよ。
 まあ無理もないだろう。ロマノフ朝において農奴制が廃止されたのは1861年のことであるが、50年以上経過した当時でも依然として強く残る身分制と埋めようのない格差が存在していた。農奴解放は、未だ完了していなかったのだ。なんとも悲しい、あの大伽藍。容易に同定などできようものか。まつろえぬアダモフは、まさに神の不在のために、両義的アポリアに苛まれ、分裂的にならざるを得なかったのだろう。それでも自らの現存在を引き受けたわけだが、結局は簒奪の繰り返しである。
 そういえば皮肉にもカールが以前こんなことを言っていた。「人は自分で自分の歴史をつくるとはいえ、どうにでも自由にできる素材から歴史をつくりだしているわけではないし、その際に置かれている状況も自分で選んだものではない。その状況とは元からそういうようにして目の前に与えられているものであり、先人から受けついだものなのだ。」。奇しくも七番目の衛星と重なるではないか。
 三度外に引き出される。バーカ。Пока.そして最後は外から窓が映し出されるが、その内部は見えない。もしかしたら、自壊したのかもしれない。
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