KnightsofOdessa

無限のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

無限(1992年製作の映画)
5.0
[ある時代の終焉と新たな世界の始まり] 100点

人生ベスト。世界で一番美しい映画の一つ。本作品を一言で表すとフツィエフ版『永遠と一日』だろう(順番は逆なんで正しくは同作がアンゲロプロス版『無限』なんだが)。タルコフスキーを都市の中に継承するとしっかりバルタスになるんだなと思えるオープニングからまず神がかっている。『惑星ソラリス』と同じく「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ」が鳴り響く空間の中で、カーテンが風にはためき、紙が舞い、屋上から黄昏時の街を眺める。マルレン・フツィエフは60年代に続けて発表した『私は20歳』と『七月の雨』で新世代代表に躍り出るも、ブレジネフ時代以降の保守的な時代に乗り切れず、遺した作品も数少ない。2019年に亡くなってしまい、ソ連崩壊直後に撮った本作品が遺作になってしまった。

旅は主人公ウラジーミル・プロコロフの自宅から始まる。寝ようとする彼を叩き起こす電話口で友人たちに"昨夜"のパーティでの態度を指摘され、海辺で休養することを勧められる同じ電話で、見に覚えのない"本棚売ります"という広告の話が突然割り込んできて、気付いた頃には家には家具を買い取りに来た見知らぬ人々でごった返している。ここで暮らした時間の染み付いた家具や本や絵画を値踏みして奪い去っていく老若男女は、ソ連崩壊後に流入した資本主義的カオスを端的に示しているのだろう。それに対して、ウラジーミルは"我々は伝統を失ってしまった"と返すのがなんとも痛々しい。帝国時代の伝統をかなぐり捨てた時と同じく、ソ連の伝統もまた捨て去られたのだ。歴史があるのに、歴史がない。物質的記憶を奪われたウラジーミルは、精神的記憶を求めて街へと繰り出していく。

『永遠と一日』は永遠のような一日に全てが詰め込まれていたが、本作品はどういう時間軸で誰がどういう人間なのかまったく理解できない。同作におけるアルバニア人の少年の立場は、唐突に現れる"過去のウラジーミル"が務めており、現在のウラジーミルに手を差し伸べたり想い出を再演したりして、"終わり"の近付いたウラジーミルに記憶の不滅性と、確かに存在している"歴史"そのものを提示していく役割を負っている。その点では、本作品のほうが『永遠と一日』よりも夢幻的カオスを寄っていると言えるだろう。死のイメージがより鮮明になる第二部では、過去の自分=不滅性との交流も増え始める反面、そこにいたはずの人間が消えるという視覚的な恐怖によって、世紀や国家や人生の終焉を強調する。時間旅行も大胆になって、ソ連時代(青年期と少年期)と帝国時代(20世紀初頭のパーティと一次大戦出兵)が現在と溶けて混ざりあっていく。

訳が分からなすぎて恐怖を感じるとこも何度かある。元妻のボロ屋敷でウラジーミルがさっきまで弾いていたギターを元妻が机において顔を上げると、ありえないほど遠いとこでウラジーミルが水を飲んでいたり。或いは、ウラジーミルが牛乳を飲み干してコップを置いた次のカットで冷蔵庫から牛乳瓶を取り出す腕が映るが、その腕が扉を閉めた先にウラジーミルが見えたり。麦畑でドイツ軍の戦車に遭遇し、そのまま戦闘に巻き込まれるシーンでは、戦車爆走、黒煙、一面の茶色い麦畑というユーリア・ソーンツェワ要素が炸裂している。

無人の駅から歩みだした二人のウラジーミルが、川岸を海に向かって歩いていくラストでは、二人の間にある川の幅が徐々に広がっていき、すぐに手を伸ばしても届かない広さまで拡大してしまう。直接的に三途の川を想起させながら、海の"無限性"をも反映していて、一つの時代の終わりと新時代の始まりを感じた。
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