昼行灯

ドグラ・マグラの昼行灯のレビュー・感想・評価

ドグラ・マグラ(1988年製作の映画)
3.8
ドグラ・マグラの構造って映画というメディアにめちゃ合ってるなと思わせられたDVDのインタビュー観たらロゴス中心主義の西洋に対抗するためにこのような語りの形式を選んだとも言ってて、それは同時に物語のコンティニュイティを重視するハリウッド映画のオルタナティブを意識的にやってみたという意味で映画史的にも意義深いことなのではと思った。
去年マリエンバードでとか、パルプ・フィクションみたいに(このふたつのプロットの組み立て方も全然違うものではあるが)ガチでバラバラのプロットって訳じゃなくて、あくまで主人公の回想や、博士たちの説明、映画など動機づけられているという体をなして、時系列が直線的でなくなっているというのが本作の特徴だった。これだけだったら複雑なフィルム・ノワールって感じだけど、その根拠のある回想がショットの切り替わりと共に別の時点へと移行するのが観客を、そして主人公を惑わせる要因だったのだと。つまり、回想の時点の整理がつく前に新たな時点が提示され、その積み重ねにより元あった時点の位置さえおぼろげになってしまうという。

じゃあなんでこんなことが起こっているかというと、それはやっぱり胎児の夢を主人公が見ているからだろう。主人公には先祖の記憶がインストールされてて、それをなぜか少年である現在も見ているのだと思う。この先祖には中国の昔話の主人公も入るし、正木博士も入るはずだ。そのうえ、殺人を犯したショックで記憶も断片化されているのだから、この作品はこれほど難解になっていると思われる。

とはいえ小説ドグラ・マグラよりも格段にわかりやすい語りになってたのかなとは思う。小説だと主人公と呉一郎は同一人物か分からないけど(映画でも一応そうなのだけど)、映画では登場人物の外見が判別できてしまう。それに小説ドグラ・マグラが複数層のメタ構造になっているのを、映画ドグラ・マグラは16ミリフィルムや砂嵐の音、白黒フィルムを使い分けることで視覚的に分かりやすくしていた。

母との思い出シーンや母を殺害したのを見るあたり、やっぱりエディプスコンプレックスが大いに関係しているのだと思うけど、それは松本俊夫にとって薔薇の葬列にも繋がる重要な作家性の一側面なのかな。そうなると寺山修司とも結構似てる。
あと研究室前の廊下のディープスペースのショットは狂った一頁みもあった。
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