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少女邂逅のeyeのネタバレレビュー・内容・結末

少女邂逅(2017年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

"少女邂逅"(2017)

去年、渋谷UPLINKにて劇場鑑賞し、今回はDVDで改めて鑑賞。

観返すとけっこう考えが出てきて、まとまらない感じなったし、長いけど、よろしければお読みください。

以下

主人公の小原ミユリはイジメがゆえに場面緘黙症で、声なき声を上げ続けている。リストカットさえも出来ない現実の自分と存在価値を示したい自分の葛藤に苛まれている。

そして、親には地元の大学に進学するように、囲われた狭い範囲で生きるように諭される。

一方で山の中で拾った蚕を象徴として、紬(ツムギ)と名付け、祈って現実世界に救いを求める。

しかし、イジメられっ子にその象徴を見つけられ捨てられてしまう。
同じその山から象徴となる富田紬(ツムギ)が現れる。

ミユリは自分が脱皮するために待ち望んでいた"モノ"が"神格化"あるいは"擬人化"した紬(ツムギ)の姿を目の当たりにする。

立場上、2人は同じ位置ではなく、ツムギ>ミユリの関係性なので、苗字や名前で呼ぶことはなく、ずっと"君"と呼ぶ。

>昔の自分に似てて放っておけなかった。

どちらが表と裏というわけでもなく、その姿を映し続ける。そして2者関係の中で、2人の世界を作っていく。

>見えてるものが全てじゃない。いつだってキミの側にいるよ。

>今度はちゃんと側にいる。

安心感を得て、ツムギのおかげで、更に広い場所に出ていき、ミユリ自身が脱皮するように外見・雰囲気が変わっていく。

物語後半

>蚕は近すぎるとお互いの糸が絡み合い、動けなくなる。だから区切る必要がある。

の通り、以降世界は2人を分け隔てていく。

蚕は成長すると蛾になり、飛べない。そして、すぐに死ぬ。

ということは、何のために糸を出すのかを自問させる。

ツムギは若い女性の価値が
"カラダである"と認識し、
蚕のきれいな外見とリンクさせる。

蚕の糸を出すそのこと自体には価値がないと考えてしまう。
"人間にとって蚕の外側だけが大切"という部分が女性の身体の価値と心の痛みと相まって不安定を加速させる。

やがてツムギは自身の絶望感と共にとどめを刺される出来事を体験する。
2人の関係は沖縄に行けなかった(行かなかった)ことで"糸"が切れてしまう。

一方でミユリはネットで男性との出会いを探し、ツムギの姿の幻想を追ってみるが、「ヒマだから」という理由では彼女の世界に入り込めなかった。

時は流れ、ツムギの性虐待、売春という現実を何も知らず、そして餓死という形で部屋の隅でなくなった現実を知る。

ラスト、今までリストカットできなかったミユリは弔うように一線を飛び越える。変身するための儀式のように。

人間として生きている証は痛覚を伴うと監督は考えていて、リストカットを助長するのではなく、あくまでも痛みが成長させる概念として打ち出している。

ツラい出来事が自分を成長させ、更にその中から儚い希望を見つけて、前に進むという映画の類いでもあるけど、ロケーションやら映像美は観入ってしまう。

演技の拙さ云々をいえばキリないけど、その時期特有の危うい雰囲気をその時期を過ぎてる演者が漂わせることができるのは、素晴らしいと思う。

賛否あるだろうけど、思春期の心の揺れ動きから、変わっていく2人の関係性や葛藤が描かれると同時におとぎ話の世界も見せてくれる映画で、自分はバッドエンドかもしれないと思うけど、これはキレイなバッドエンドであると思う。
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