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桜桃の味の海のレビュー・感想・評価

桜桃の味(1997年製作の映画)
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中学生の頃に太宰治の『桜桃』に出会った。明るく振る舞いながらも歪み続けた心では密かに自殺を考えている語り手の男は、太宰自身がモデルになっている。冒頭で旧約聖書の「われ山にむかいて目を挙ぐ。」が引用されており、これに続くは「わが助けは何処より来たるや。」太宰のこの問いかけに、わたしならば何と答えるだろうかと、読み返すたび考える。『桜桃の味』で自殺を望む男は「わたしにはわたしの、あなたにはあなたの苦しみがある」と語る。他者を解ることができないのは紛れもない事実だ。だけれどそれ以上に、誰かを理解したいと思ったときにわけもなくこぼれだす言葉や詩の数々、何にもなれず滴り落ちる涙に、わたしは愛と名付け、それだけが真実だと、もう二度とくじけないほどひたすらに信じていたい。愛するのに愛しきれない、人間の苦悩と悲哀を抱きしめるようにここにあったキアロスタミ監督の『桜桃の味』は、太宰の最期の問いへの、一つの完全なる答えなんではないかとわたしは思った。わたしにはわたしの、あなたにはあなたの、ただそれが音もなく重なってしまうとき、やはりわたしたちは何も言えなくなるのだ。時間も痛みも憎しみも無かったことにしてしまえるのは、神でも四季でも果実でもなく、それらを愛しながら起こり続けるわたしたちのこの営みだけだろう。わたしは、誰かを救うためとか、歴史に残るような言葉を残すためとか、そんなことを自分の人生に望んだりはできないような、くだらない人間なのかもしれない。けれどそうして生きていることが、いつかあなたのためになってくれたらいいと思いながら、生きている。偶然に、桜桃の先に続く言葉がここにあったように。
太宰は、女性の胸の谷間を「涙の谷」と呼んだ。ここで言う涙は、女が人知れぬ苦しみに一人きりで流す涙のことを語っていると思われがちであり、まさに『桜桃』で語られるのはそれで間違い無いだろう。だけれどわたしはこの「涙の谷」という言葉を聞くたびに、抱き抱かれ涙する二人の人間を思い浮かべてしまう。
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