ゆずっきーに

寝ても覚めてものゆずっきーにのネタバレレビュー・内容・結末

寝ても覚めても(2018年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

ボクシングデーの未明に鑑賞。モエシャンを携えて。
深々夜に観たことも手伝ってか、観終わった直後は脳に霞が立ち込めるような気持ち悪い感じだったのだが、ここのレビューを色々読む中で段々と整理ができてきたように思う。

端的に言うならば「スクラップ&ビルド」がこの映画の縦軸になるだろうか?

麦という幻のような男への思慕に囚われながらも朝子は亮平との生活を続けている。いつ壊れるかも分からぬ不安定な関係の中で「大好き」という言葉を自らに言い聞かせながら数年が経つが、呪いとも形容すべき麦への想いが霧散してくれることはとうとうなかった。
鑑賞中にまず感じたのは「なんて身勝手な女なんだ…!」という共感し難さであった。そう思いながらもなんだか腑に落ちない、身勝手の所業とばかり割り切れないえも言われぬ気持ち悪さを伴ったのもしかし事実である。朝子は麦と亮平を天秤にかけ、麦を選んでしまうわけだが、よくよく考えると朝子に選択の余地はなかった、いや朝子がしたのは選択ではなく破壊だったのだとの考えに至る。
亮平とどれだけ長い時間を共にしたところで己の中の麦を振り払うことなど叶わないわけで、どこかのタイミングで麦からの解放を掴み取るための儀式が朝子には必要であった。「普通に考えれば秤の上の亮平を選ぶことで麦から解放されるんじゃね?」などと捉えてしまいがちであるが、それは解放の儀式としてはあまりにも脆弱で、単に亮平を選び取るだけでは朝子の中から完全に麦を消し去ることができなかったのだろう。
だからこそ朝子は麦と二人で車に飛び乗り、亮平との幸せを一度は完全に破壊した。麦の手を握った瞬間は理性や良識とかそんなものからは乖離した本能的な衝動で麦のそばに引き寄せられ、北海道で生涯寄り添うこともやぶさかではないときっと朝子は感じたのだと思う。しかし結局は麦という存在自体がフィクションのようなものであると判明し、朝子は亮平の元へ戻る他なくなる。仙台で麦と朝子が別れる、その心変わりの早さも現実離れしたものであったが、朝子にとってはそれまでの関係を一旦破壊できたという結果を獲得した時点で亮平の元へ帰ることは決まっていたので、あのような展開になるのも不思議ではない。この辺り言語化がなかなか難しいのですが、、、
よりを戻した後の二人の関係は幸せと呼ぶには程遠いものだが、それでも以前のいつ壊れるとも分からぬ不安定さに怯えていたものとは違う、ある種の成熟した信頼を感じさせる。ラストシーンの二人は如何とも形容しがたく、初めて見る愛の形だった(と同時に自分がステレオタイプ的な恋愛観に縛られていることを突き付けられるようでもあった)。

破壊された上に並び立つ新しい二人の関係性=「スクラップ&ビルド」なわけだが、作中で描かれる震災とパラレルな関係になっているのかもなとも感じる。破壊され尽くした状態は凄惨そのものだが、凄惨さからの再生は以前にはなかった価値というものを携えながら進んでいく(いかざるを得ない)。震災の場合は「壊された」、朝子は「壊した」という大きな違いがあるが。

傷つき傷つけながらも自分の至らなさに気づき、破壊と再築の果てに真に血の通った関係へと到達する。
そんな映画だと自分は受け止めた。
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