せいか

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリスのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

1.0

このレビューはネタバレを含みます

1/3、Amazonビデオにてレンタルして視聴、字幕版。
タイトルの通り、ニューヨーク公共図書館のドキュメンタリー映画。日本での公開前あたりからずっと気になってはいたけれど、数年越しにやっと観た。長い作品なのもあって休み休み観ていたら一日が終わった。かなし。

とにかく最初からずっと誰かの語りなり声を中心に構成されていた印象。図書館での催しの一環としてのインタビューや専門家のスピーチ、読書会の発言、音読、作者自身の音読、職員たちの会議の様子云々。ついでに音楽演奏会も。そこには宗教的な要素があったり、自身の考えを述べる思想に近い発言でもあったりする。手話で音読するというものにすら感情を重視していたり、彼ら彼女らの声(手話)にはある種の生々しさがある。会議での発言一つにしろスピーチに近い強さがある。相手に向かって語ることについての国民性が出てるとでもいうのか、とにかくみんなやたら強い。台本とかもろくになくすらすら引用しつつ自分の言ってる内容を補強しようということもされているので、記憶力が三歩歩いたらポカンの身としては素直にすげーって感じであった。あと、こういうテキストベースの語りならともかく、口が達者に回らないのでそこでも感心するのだけれども。ざっくりした説明をしたときに「詳しく説明し直して」と言われたらちゃんと自分の言葉で説明できるのとか、当たり前ながらもなかなかすごいことだと思うので、そこでちょっと日本のことを振り返りもしたり。
日本との比較で言えば、一方的な講演会にしろ、双方向的な会にしろ、個人がかなり思想や政治的にも踏み込んだ発言ができる場が公にあるというのは本当にまたここもすごいことだと思うし、それでああいう落ち着いたディベートの場になれているのもかなりそこに格の違いを感じてしまいもした。特に一般市民という個人にその場があるというのがあまりにも強い(そしてまたそれを公共の図書館というかなり身近になれる場で行っているのだ)。

会議シーンでは図書館の運営をめぐる話が多く、ニューヨーク公共図書館といえばかなり多方面にハイレベルで進んでいるという印象はあるし別にそこが覆されるというわけでもないけれど、このレベルにあっても日本の公立図書館などが抱えているだろう問題と重なるような資金面の遣り繰り(日本の公立図書館図書館などと違って民間の支援も重要であったり、資金をどう使って増やすかみたいなこともあるのだけれど)、社会に対する存在意義をどう出すのかということへの焦燥、図書館に対して世間が持つ印象みたいなものがあるのだなあと思った。
有名な話(?)ではあるけれど、レファレンススタッフが英語の古語をその場でライブで翻訳してみせたりとか、図書館司書というものの専門性がそういうところからも伺えるシーンもあった。

インターネット整備ないしはモバイルWi-Fiの貸出による市民間の情報格差の緩和への取り組みなんかが特に本作の会議シーンでは多く時間が割かれていたり、遠回しにしろ直裁にしろ図書館の内外からアメリカ社会が抱える貧しさを映し出していたりするのだけれど、本作で一番軸に置かれているのってそういうところかと思った。とにかく最初から最後まで図書館側含めてそこをやたらと感じる(アメリカという国の成り立ちそのものを語るような催しの映像なども多かったのだが。ユダヤ人や黒人に関するものとか。ここも、アメリカという国とはどのようなものか、どのように考えてきた人々がいるのか、そしてどのように私は語るのかということに焦点を当てているのだと思う)。けしてなんとなく外面から思うほど良くはない状態なんだよというのをひしひしと伝えてくるというか。延々語られるところの図書館と社会を繋ぐというのも決してそこに豊かさに基づいたものがなくて限界ギリギリにだいぶ近い、何となく見覚えがあるような暗さがある。ただ開かれた図書館であるという状態に胡座をかいてるだけじゃ駄目なんだよとか、その試みは面白いとは思うけれど資金は絶対不変てもらえるものであるとは言えないのだからあまり将来の事を考えないまま公共のための善意の行動みたいなのに全振りするのも危ないよねみたいな発言があったのも印象深いというか、世知辛いというか、他の箇所にしてもそうだけれど、「公共」というあらゆる人を含むものに向けてどういうことを行っていくかという難しさがあった。何でもかんでもユートピア的にやってあけるはずもないし、相手は人間なので何かしらの摩擦が発生する恐れもある。
あらゆる情報へのアクセスのために開くこと、生涯学習の場の一つとしてあること、公共の場として開くことにおいてそこは現代の図書館にとっては欠かせないことであるとは私も常日頃思うところではあるのだけれど、その一つとして、ホームレスへの対応をどうするか、一般市民とどういう摩擦が起こり得るかといった会議も取り上げられていた。この辺は映画繋がりで言えば先立って去年の年度末に観た『パブリック 図書館の奇跡』を思い出しもする話でもある。
貸出数・予約ニーズ(=ベストセラーなど)に合わせた短距離型の蔵書選定をするか、将来的な意義(尚且つ資金提供の承諾も得やすい)を優先して専門図書を優先した長期的な蔵書選定をするかとか、予算配分の話なんかも聞いててやはり聞き覚えのある話題でうへーっとなっていた。電子書籍の話もそうだけれども。広い目で見たうえで冷静に話し合って決めてくしかないものだものな。個人的にはそりゃ図書館は調べ物をする場であるのが第一義だと思うので長期的なほうを優先するのを推したいけれど、それだけだと社会になじめないのも分かるので、しんどい話題でもあった。利用者はそういう意義みたいなのよりも、今、自分にとって便利か、都合がいいかという評価軸もあって、そこがうまく催しとか蔵書収集に関して合致してるならいいけど、そうでないと予約本問題(ないしは副本やたら抱えまくり問題、書店等との軋轢)とかに走ることになるというか、かと言って容易に切り捨てるとついでに利用者たちのいろいろを切り捨てることにもなりかねない繊細さを含むのでほんと難しいんだろうなというか。
貸出数にこだわるのは駄目だよねという話になったりもしてたけれど、でも数字化できるってあまりに現代においては強くてそれによって目眩ましもされるからとか、うおおおおお!!!!って感じだった。

図書館の催しなんかもそういう目的があるけれど、多様な文化に繋ぐ公共の場となるという他にも、コミュニティーの場として機能することも重視されているとは思うのだけれど、そこで映し出される参加者の中に青年期などの学生・社会人の層の薄さみたいなのも観ていて感じられて(普通に図書館を利用している層となるとそうでもないのだけれど)、なんかこの辺の現象とかもアメリカでも悩んでたりしてそうなのかなあと思った。大規模な会場での討論会とかだとかなり年齢層にばらつきもあるし会場も埋まってるしで、そこなんかはすごいなと思うけれど、取り上げられたものだと双方向性になるほどよほどターゲットを絞ったものでない限りは年齢層が偏っていたような気はする。
催しとして一般市民に対する年齢を問わない就職説明会も行っていたりとかにしろ、そういう在り方はだいぶ好きである。

図書館前の開けた所で人々がのんびりたむろってる光景なんかもまさに公共としての場の在り方の一つで、階段をベンチ代わりにしてたり、何はなくともぶらぶらしてたり、楽器演奏していたり、こういう場所があるというのが京都市内に住む私としては改めてすごく羨ましく思うばかりだった。そういう屯することを許容する場というの、なかなか築けられてないと思うので……。普段から思うことだけど、道中などでお金がなくても座れるような場所の少なさとか日々感じているので。
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