カラン

戦争と平和のカランのレビュー・感想・評価

戦争と平和(1965年製作の映画)
4.5
『テリファー』(2016)というのを朝起き抜けに観て、仕事に行きたくないのと相まって、異様に気分が悪い。それで、別の映画のレビューでも書いて、頭の中を一新しようと。で、この『戦争と平和』(1965〜1967)なのだが、長くて、以下に書くが、撮影技法のてんこ盛りで、しかも、色々と深いところを探求している映画である。観ている途中から、これはレビューを書くのは無理だろうな、と思っていたのだが、書いてみたら、見事に心機一転。(^^)



















トルストイの小説を原作にしたもの。19世紀の初頭、ナポレオンがイギリス、オーストリア、ロシアと対立しながら、版図を拡大するべくロシアに大軍を持って攻め込む。広大なロシアの国土と厳しい冬と焦土作戦に、戦局を進められないナポレオンがフランスに引き上げるまでの間の、ロシア貴族たちの興亡を描く。


☆大作映画

4部構成で424分というのは、『アラビアのロレンス』を2回分の長さである。そこにスピルバーグの『プライベート・ライアン』の冒頭のゴアシーンに相当する映像が4、5回入ってくる。ボロジノの会戦の撮影で制作を開始したらしいが、戦争が行われた場所で、その当日である記念日にロケが敢行され、実に12万5千名の兵隊が軍から派遣されるという、ソ連の一大国家事業映画となった。さらにソ連の何十の美術館、博物館から調度品を取り寄せたのであった。脚本、監督のセルゲイ・ボンダルチュクは主役のピエールも演じている。あまりの多忙のゆえか、製作中に2度、心停止に陥るはめに。トルストイと共に人智の極限に至らんとする大作である。


☆見どころを語る前に、ロングテイクの話しを少々

見どころを絞れば、下に挙げる3つであると思う。分かりやすい順に書くが、3番目がもっとも味わい深いところであるが、ロシア映画の真骨頂ともいうべき催眠効果を発揮するポイントでもある。

下の3つ全てに共通する撮影の技術的な前提はロングテイク(長回し)の多用である。ロングテイクを重視した結果、空撮やクレーン、ディゾルブやスプリットスクリーンなどが使用されることになった。わちゃわちゃ目新しいことを盛ったのではなく、息の長いショットを使いながら、長大な群像劇を映画的に定着させようという企図なのではないか。ロングテイクの結果というのは、例えば、冒頭は生命の起源の分子スープのような緑から始まり、地を這うようにして草むらの中を移動していく。小高い丘を這っていくと、木の葉の暗がりでしっかりカットを隠しておいて、すっと空にシームレスに飛び立つ。そして雲を透かした広大な平野のロングショットで、私たちは大きな流れに乗るのである。

戦争は関係を破壊する。群像劇は多様な魂の軌跡を追跡する。かくて、ここでのリアリズムは個々別々の現実を描くことになるし、この時代の思想的、文学的動向は別々のものを別々のものとして描くことを希求するのだろうが、ロシアの映画はそこは独自の道を歩んでいたようなのだ。タルコフスキーは「戦後」とは違う発想を抱いてそれを実現したように思える。同様にこの映画も違う選択をしているのではないか。

ロングテイクの息の長いショットによって、戦争と群像劇の効果としての切断に抵抗するという作戦なのだ。大河小説に新技術を使えるだけ使ったというような軽薄なものではまったくないのである。


☆見どころ3つ

①戦争の大局とゴア

上に述べたように12万という圧倒的な人海戦術の撮影で、長大な戦闘シーンが各部で再現される。さらに転がった馬や砲兵の足が吹き飛んでいる細部まで描きこむ。カメラは噴き上がる火炎の手前をレールでスライドしたり、負傷した兵隊を丘の上まで歩く速度で追いかけて、兵隊が倒れるとその頭の上にまで伸びてくる。最後にクレーンに繋げてカットなしで空中に舞うのは、戦場のシーン以外でも使われる。

壮大な戦場のダイナミズムを捉えたロングショットは見事なもので、時おりコントロールしきれていない兵隊が映るのは致し方なかろう。そこに、轟音の戦場で三半規管がやられてその場を這って離れる以外に何もできない無名の兵士の錯乱を見逃さないどころか、狂ったようにつきまとって戦争が人間を破壊するディティールを追求するのである。

このような戦闘シーンは、観ていて、非常に疲れる。誰だか分からない無限の人間が運動するのであり、かつ、細部の破壊を描写するのが何度も、長々と繰り返される。ベルトルッチの『ラストエンペラー』(1987)の大群のロングショットは、静止している集団を対称的に撮っただけでしょう。本作の大群は圧倒的に巨大でダイナミックな被写体と、細部を捉えるダイナミックなカメラの両輪である。カメラもモチーフも動かない映画とは違うのである。

ただし、本作はあまりに巨大すぎて、リドリー・スコットの『グラディエーター』(2000)のように戦術が見えるくらいに集団のコントロールが効かせられていないのが、欠点なのである。


②舞踏会

ヒロインはリュドミラ・サベーリエワ。マリインスキーでバレリーナをしていた美少女。帝政ロシアの舞踏会の再現といえども、サベーリエワは余裕でくるくる踊る。豪奢な装飾の巨大なホールで、これまたとてつもない数の人間たちのなかで彼女は輝くのだけれども、カメラは滑らかに追従する。カメラマンにローラーコースターを履かせてアシスタントが押しているのだが、ここでもロングテイクからすっと上に伸び上がり、現実では不可能なポジョンから長回しを展開して、しまいにはワイヤーにかけた自動カメラで、巨大ホールの天井からの視点のまま長距離を縦断して、シーンを超える。

至れりつくせりの優雅な舞踏会だが、戦場と同様、まったく気が抜けない。この映画の欠点は上映時間の長さそのものではない。全編に渡って作り込み過ぎで、どこも気が抜けず疲れることだ。たとえ舞踏会のシーンでも。


③多声のカーニバル

貴族の教養としてのフランス語という文化がロシアにはあったので、本作にも何度かフランス語でのセリフがあるのだが、誰かがフランス語で話し出すと、しばしの間をあけて、ロシア語で同時通訳が始まり、フランス語にロシア語が重ねられて、読み上げられる。

ピエールが金目当ての女と結婚する際、画面手前と画面ずっと奥の一角ではその女の父と母が早く結婚の契りを結ばせたいとわくわくしている。ここでは両者の空間は一応接続している不思議な空間となっている。手前のピエールたちの小声の会話に、奥の親の会話が重なる。続いて、親がピエールたちのそばにやってきて、強引に結婚を約束させると、勝どきが上がって、そのままジャンプカットで戦場へ繋がる。

このように、ことあるごとに音声が重なり、どんどん話し始めて、さらにその上に定位しない音声でナレーションが入ってくる。フレーム内でも外でも、馬の悲鳴でも、草葉のかそけきでも、前からも後ろからも、どこからともなく、時空を超えて声が到来し、空間が接続するのは、まるでゴダール映画である。この音声のカーニバルは、セリフのある役だけでも500を超える大河の群像劇を、収斂させるのではなく、その多声の多声性を失わずに保存する、この映画の最重要な契機なのではないだろうか。





原作は読んでいないのだが、映画を観ていてトルストイを感じた。ナレーションに含まれる言葉の強度が違う。さすがだなと。しかし、自分に向いているのはトルストイよりドストエフスキーなんだろうなと。(爆)
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