まぬままおま

ミスミソウのまぬままおまのレビュー・感想・評価

ミスミソウ(2017年製作の映画)
3.8
献身の快/不快。

こわいです。

何もない街で心が躍る行為が暴力であることの不条理さ、絶望の底の深さは当事者にしか分からないと思う。ゴミが捨てられるあの穴よりももっともっと深い。

だからといって、彼らのいじめや暴力が正当化はされない。しかしその不当さが快を与えるのだから絶望だ。

以下、ネタバレを含みます。

さて、彼らの行動の動機には献身がある。その献身はよいことのように思える。
相場はいじめの標的にされた春花のために尽くすし、いじめっ子のひとりは酒浸りな父のために夜な夜な酒を買いにいったりする。いじめっ子のひとりの家庭環境は悲惨なものーケアされるべきは彼女だーであるがその行為自体はよいことであり、献身を向けた相手に快をもたらすことはある。

しかしもし尽くす上で必要な犠牲の動機が歪なものであったら?相場の献身は春花を独り占めしたい支配欲に端を発しているし、いじめられっ子が春花の家を燃やし、彼女の親や妹を焼き尽くす献身は、いじめの主犯格・妙子に対する憧憬と承認欲に起因するものだ。

献身は気持ちがいい。動機に歪さがあろうと、献身している最中は〈私〉を殺して他人に快を与えればいい。絶望の世界では暴力が自分自身に働き、〈私〉が消滅する。しかし滅私の果ては無敵だ。いじめられっ子が純心な瞳で殺意を語るとき、そこには阻害するものが何もない無敵さがある。

だがその献身が差し向けられる他人やその行為をみる私たち観賞者は気持ち悪さも感じてしまう。自己のなさと、動機のエゴイズムさに。前文は矛盾している。しかしその矛盾さにも不快感を持ってしまう。だからこそ妙子はいじめられっ子の献身に不快感を示すし、春花と相場の関係は破綻する。献身はそう簡単には擁護できない。

では春花の復讐は何を意味するのだろうか。彼女の復讐は、殺された父母や重傷の妹のための献身とも解釈できる。しかし彼女はきっと快を感じてやってはいない。クラスメイトに問い質すことも和解もなくただ殺すのだから。そしてあっけなく殺すから彼女の献身に不快も感じない。彼女の献身は中学生の無垢な暴力でしかない。

もはや快/不快の判断の埒外にいる。それは彼女が非地元民であり、別の生き方を心得ているからなのかは分からない。しかしもう彼女は殺しているし、死にゆく。バッドエンドしかここにはない。

妙子に未来を託すのは雑な気がする。妙子が何に気づき、赦されたのか判然としない。
であるならば、私たちが献身の快/不快を抱えて、絶望の穴から這い出るしかない。

衣装にもこだわりをみせる本作。妙子の真っ白な衣装に結末を予想させる怖さがあるし、相場が差す傘が茶色なのは、土を想起させると共に彼の心には赤も黒も混ざっていることを意味しているようでこわい。

結局のところ難しいことは考えずに中学生の復讐譚を純粋に楽しめばそれでいいとも思っている。

蛇足
こんな結論になってしまったのは、ボーガンのシーンからだ。なんかコミカルだし、本作は笑ってみればいいと吹っ切れた。ボーガン視点のカメラとか何やねん…そしてちゃかしBLは批判的に笑わざるを得ないのだが、それが後の春花と妙子のレズビアン関係とは言い難い、そして妙子といじめられっ子の憧憬の関係の鏡像のような親密さにつながっているんですよね。
教師も滅私状態で、妙子を友達と思うのは単純にヤバいと思うが、いじめられ学校を卒業できなかったトラウマを克服するためとか結構深刻だ。しかし除雪機に轢かれるのは不謹慎にも笑ってしまった。