【涙味のオレンジジュース】
「自分で復讐してはならない。神の怒りに任せよ」(ローマ人への手紙)
観賞中、湊かなえの小説を読んでいる気分だった。
傷ついたAさんが怒りに振り回され逆恨みでBさんを傷つけ。
Bさんも怒りに燃えて逆恨みでCさんを傷つけ。
怒りの連鎖に翻弄される人間たちの悲しき性を、突き放した目線で捉えた辛口のブラックコメディが『スリービルボード』という作品だ。
人種、性指向、宗教、使用言語、収入、容姿、等々々……何らかの要素を持つことで、
・虐げれる人物
・虐げられているという被害者意識を持つ人物
・今後虐げられるのではないかと恐れる人物
彼/彼女たちがやり場のない怒りと憎しみを直接無関係な者への復讐として発露させる救いのなさは、残念ながら人間に習性として備わっているらしい。
今作の主人公の一人ディクソンはレイシストだが、彼の攻撃性もまた、あるコンプレックスからくる恐怖心が原因ではないかと仄めかされる。
メンタリティの面で『J・エドガー』のディカプリオや、『それでも夜は明ける』の奴隷農場主を想起させる人物だ。
メインの主人公であるフランシス・マクドーマンドはいわゆる「無敵の人」で、娘の仇を取れるのならば何だってやる狂気の復讐鬼。
作中、最も戯画的に誇張された存在といえる。
自分の復讐を邪魔する奴やナメてくる奴には容赦のない暴力をお見舞いし、あげくの果てには、彼女に同情を寄せ寄り添ってくれる人物まで傷つけてしまう。
「愛する人を暴行ののち殺害された主人公による空虚で救いのない復讐劇」
その設定自体は『ノクターナルアニマルズ』に近いが、
「次の復讐先」を見つけること自体が主人公の目的と化した結末まで含めると、『メメント』との近似性がより強い。
とはいえ彼女は終盤で元DV夫を殴るのを堪えたり、ラストシーンでは「レイプ魔を本当に殺すかどうかはこれから考えよう」と呟くなど、内面に変化が現れていることも示唆される。
結末を示さないことで観賞者は「お前は赦す者か?赦さない者か?」と問われ、思考を促される作りだ。
「人間にかける期待」の描写でいえば、広告屋の青年レッドのリアクションが最も印象的だった。
理不尽で凄惨な暴力を被ったにも関わらず、怒りと憎しみの不毛な連鎖に「赦し」という終止符を置く彼の行為は、パンドラの箱に残された希望のかけらを思わせた。
誰しも生きてれば誰かに深く傷つけられたり、傷つけてしまう事はあるだろう。もちろん自分もそうだ。
「あいつのこと、今でも赦せないけど、せめて諦めたいな」
「自分だって自覚の有無は問わず、誰かを傷つけたり、知らないうちに赦されたり諦められたりしてるはずなんだ」
「そもそも人間が誰かを赦す赦さないなんて発想そのものが傲慢じゃないか?『ドッグヴィル』のグレースみたいに」
「とにかく、自分もレッドのように執着を手放せたらいいな…」
等と、観賞後はボンヤリ考えこんでしまった。