せいか

ガーンジー島の読書会の秘密のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

1.0

このレビューはネタバレを含みます

2023/1/22視聴。字幕版を動画レンタル。
原作小説は現状未読。

私事ながら、読書が好きな傾向にあるので、そうした面でまずタイトルに惹かれて興味を持った作品である。読書会って強制的に他人と一冊(またはそれ以上)の本を介在させてそれについて読み合ったり感想を言い合ったり何だのする大変にコミュ力が試されそうなもので、未だに自分がしたことはない領域だったりします。自分なりの感想を持つこととか、粗雑ながらも何かしらの知識背景を基に語るとかはできるししてきてますが、それをいざ他人とやるってすごいことだよなとか思ったり。

閑話休題。本作のあらすじのようなものはWikipediaなどに詳しいのでここでは端折る。

本作はエンディングのスタッフロールのところで読書会メンバーが各々何らかの作品を踏まえつつ「語る」ということをしているのだが、この中で、ヴァージニア・ウルフ(の特に『灯台へ』辺りか?)を意識して、彼女の作品が持つ「意識の流れ」に触れているくだりがある。まさにその特徴が本作にも応用されているのではないかなと思った。
他にも、他人との繋がり、コミュニケーションというものも重要になると思われる。

また、女性作家としてのウルフというものももちろんハイコンテクスト的に意識されている。この点では作中で他にもブロンテ姉妹(特にアン・ブロンテについては特に主人公が注目する作家として読書会メンバーと話をして盛り上がるくだりがある)などが触れられているように、「女性作家」は本作のキーの一つでもある。自分の名前で、自分として作品を書くのではなく、別の存在として成り代わって書かなければならなかったとか、そういった女性作家の一部の事情にも触れられているし、この「自分」の喪失が主人公に落ちる影でもあり、主人公も特に作家人生の最初は自らのセクシュアルが枷となっていたらしいことは本作でも窺い知られるし、それが現在のキャリアにおいても素直に人前で堂々とは「語る」ことができないという息苦しさも触れられてはいる。
他にも本作では他の登場人物(特にストーリーの進行と共に人となりがおおよそ明かされていく、読書会の創立メンバーであるエリザベス)の描写などからも、女性というものに着目した上で作品を形作っているといえるので、一種のフェミニズムを問題としている作品なのだろうとも思う。

さて、それで先に作品全体としてどうだったかみたいなことをここで書いてしまうが、これがまた結構、鑑賞中から、どう扱ったらいいか分からない作品というか、妙にフワフワして視聴ポイントとなる着地点がいまいち掴みかねる作品だなというのが正直な感想である。もちろん、上述したように、女性の生き様みたいなものはポイントの一つではあるのだけれど、そこにしても妙に地につかないというか。人生なんてはっきりきっぱりと正解みたいなのとか、こういうものなんて枠に収まらないとか、そういうことなのか、フェミニズムだってそういうふうに落着はしないってことなのかとかも思うが、それにしたってなんだか座りが悪い。
主人公が「自分の居場所」が分からなくてさすらっているという作品でもあるのだけれど、この点についても何かなあなあにされている印象が強い。ウルフの『ダロウェイ夫人』のように、主人公の場合はガーンジー島内を歩き回ったり交流をすることで自分なりの答えを見出すみたいになってるようでなってないというか。主人公の抱える問題がこの島での読書会から出された秘匿された謎を解きほぐしていくことで昇華されるという作品のはずなのだけれど、謎解きみたいになってる部分に変に注力し過ぎて、主人公自身については曖昧に描写され過ぎているというか。正直、何なんだこいつと思う点やや多い。作品の立ち位置としてこの主人公をどういうものとして設置したいのかがよく分からない。
以下、そんな感じながらも抱いた感想を書いていくことにする。

本作では現在もイギリスの「王室属領」という立場でイギリス国王を王とはしながらも独特の自治権を保持しているガーンジー島を主な舞台としており、この島の第二次世界大戦中~直後を時代背景としている。作中の現在進行形の時代が戦後の1946年であり、読書会の創立などの過去描写にあたるのが戦中の1941年からである。
なので、イギリスで戦争を過ごした主人公の立場にしろ、この島で戦争を過ごした読書会メンバーの立場にしろ、その辺の歴史的背景が大きく作品に関わってきている……のだが、はっきりいって本作においてはこの辺についてすごくざっくばらんにしか触れることはしない。「戦争」もキーの一つとして機能しているのだが、軸が曖昧といえる。
というのもこの点に関しては登場人物たちの「語り(回想)」によって形作られていくことが重要なのかなとは思いはする。だから主観的に一部のことしか切り出されない。このため、「いや、もっといろいろあったやろがい」とか「そこに触れるのにこれには触れんのかい」みたいなことを観ながら思うことになるのだけれど、そのへんの「語られていないこと」についてのハイコンテクストについては鑑賞者に全面的に委ねている作品なんだなとも思った。確かに究極的に知らなくても本作は観れるし、「語られることで形作られること」が重要なのでそれでまんまとその思惑どおりに本作を通して当時のガーンジー島のイメージを固定させることもできるのだけれども、個人的には、その「語られていないこと」を踏まえた上で観ることをおすすめする。
というか、端折られている背景が普通にほいほい出てくるので(ナチス滞在にしろ、ドイツ兵と島の女の関係にしろ)、どっちにしたいのよというか、何というか。
ひもじさの描写にしたってなかなか描写が「そういうもの」的にすっ飛ばされている感が私にはどうしても強かった。ナチスが来てから去るまでの色々をダイジェストにし過ぎというか、端折り過ぎというか(他の点にしたってそうだが)。この点からも、本作に(「戦後」と言われる時代も含めて)色濃く落ちているはずの悲壮感が絶望的なほどに欠けることになっている。
あらすじをそんなに踏まえずに観ていたので、こんな話なのねって感じではあったけれど、がっつり歴史背景ありきのくせにフワッフワ調理なのがとにかく気になるばかりというか。制作国(イギリス・フランス)的には常識の範疇だからこそのフワッフワなのか何なのか。そりゃ究極、分からんでも観れる作品にはなっているが、そこに触れるならこれに触れ……ない?!みたいな気持ちになりました。

また、ガーンジー島 - イギリス( - アメリカ)みたいな図になっているのも本作の特徴だと思うのだけれど、この三者の構図もあんまり生かされきれていない感じがした。特にガーンジー島 - イギリスの関係については本作の内容ならもっと深掘りして表現できることあったんではないかとか思ったり。
イギリスで主人公の恋人として登場するアメリカ軍人マークなどは主人公に対して穏やかで優しくていつもニコニコしているような態度ではあるが、その柔和さに露骨にマチズモの片鱗や一方的な態度を覗かせていたり、(真珠湾を除き)本土が戦地とはならなかったアメリカという国を代表していたり、富裕さ・派手さを体現していたりという役割が与えられていて、その上で(編集者として主人公に寄り添う人物もぼやいたように)主人公を束縛する男として存在してもいるわけなのだが、これにしたって本作内での調理はやや曖昧なところで落ちている。どういう役割を担っているのかは上述のとおり伝わりはするのだが、さてそれでこの構図からテーマをあぶり出しますみたいなことまではされきれていない。(あと余談ながら、編集さんが一番いい男だったと思うのだけれど、編集と主人公の関係も一つの男女関係の描写ではあったんだけど、本作ではなんかこう、主人公むかつくなみたいなところでまとまっていた気がする。これ以外から垣間見えるところからしても、主人公、なかなか他人に対して残酷さがある気がする。そういうキャラクターであるっていうだけなのかもしれないし、視聴者にとって心地いいキャラクターであるかどうかなんていうのも勝手なことなので、それならそれでいいんですが。)
この三者間では豊かさと貧しさの対立構造とかもあって、主人公はリッチな方向に行くことは自分の居場所に繋がらないと思ったりもしていている描写がったりもしたけれども、戦時中にしろ戦後にしろ、間違いなく(描写された範囲で言えば)イギリスはガーンジー島よりも恵まれていたわけで、しかもガーンジー島はナチスに支配されるときにイギリスからはほとんどさっさと切り捨てられた立場にあった上で艱難辛苦を味わったのである。戦争という背景を登場人物たちは共有していても、その内実は三者で全然違うのだ。そこを本作では無視しているというか、焦点をろくに当てないのが気になった。これに関する部分に着目するとなおさら主人公が無知で無邪気でひどい態度を繰り返していて目に余ったりもするわけである。だがそうした態度については何も語られはしない。そこは視聴者がそう思わされるばかりで作中には影響しないことなのだろうが、意図的なのか何なのかっていう感じである。

ガーンジー島で過ごしながら読書会創立メンバーでありながらも今は島にいない謎の女性であるエリザベスのことを多数の語り手の「語り」を通して形作るという、ここでも「語り」が重要になっているはずなのだけれど、そこも結局、多面的に一人の女性のことを語るというような、アンブローズ・ビアスの『月下の道』(ないしは、それに着想を得ているとされる芥川龍之介の『薮の中』)的な、複数の語り手が一つの事柄を話してどうのということに徹しきらず、結局、「一つの形」を補足して描写しているだけである(下宿先の女性が唯一、当時、ドイツ兵と結ばれる女をどう見ていたかを悪い面から露骨に表現しているだけである)。そう行き着くにしてもその「一つの形」にするまでも描写が物足りなさが目立ち、それでいいのかもしれんけど、何か、鑑賞者に対して単純さをお出ししている感じがする。原作小説だともっと緻密に練り上げてそこに至ってるのかなとは思った。

そうやって形作られたところから見える(そして映画なので、回想上という前提ではあっても、ほとんど「(作品上では)現実のもの」として描かれることになる)エリザベスが、とことん、「自分勝手なんだけど善人ではある」みたいな人で、何というかとことん激情型というか、感情の人みたいなもので、はへーとなる。敵視していたけどドイツ兵を個人として捉え直してある人が好きになりました(ここまでは「そうか」なのだが)、一線も越えました、仲間の前でも堂々といちゃつきます、メンバーがどう思うかとかを解消するよりも先に無理矢理読書会にも招きますとか(※それがきっかけでドイツ兵は懲罰を受けて島を去ることになって船が沈んで死ぬ)、ナチスに奴隷状態て酷使されている病気の少年を助けるために自分の娘(※ドイツ兵との子供。ちなみにドイツ兵は彼女の懐妊を知らないまま死去)は読書会メンバーのドーシーに押し付けて、危険を承知でどうにかしようとしますとか(※結局少年は銃殺され、彼女は投獄されて島の外へ)。最期にしたって、主人公がアメリカ軍人彼氏の権限を利用して調べてもらった動向という「語り」を通して、どうやら、誰か子供をかばって銃殺されたらしい。確かにその抵抗のあり方は善ではあるのだけれど、いささか首をひねるところがあり過ぎる人柄なのである。(あと、逢瀬ついでにセックスまですることはできても、島内の読書会に勝手に参加するのは島での任務解かれるくらいのことなんか?とかちょっと思ったりはする。)
もちろん、その設定に文句を言っているわけではなくて、「こうした女性がいました」と形作られた女性のイメージを前にして自分の答えを得た主人公の図が妙に曖昧なのが気になるというか。主人公が欲しいものを掴みとる人であるというイメージとして用いられる小物として「爆撃で両親諸共に吹っ飛んだ家に残されていた遺品となる小鳥の浮かぶ球状の置物」があるように、彼女が目指すものは「自由」であることは分かるし、同じ女性であるエリザベスを通してその自由さ、自分の思うままに生き抜くことに何か感じたのだろうけれど、微妙に、それでええんか?と思うというか。主人公も大概似たような性質をお持ちなのでそれでいいのかもしれませんが。

エリザベスについては、最初、読書会メンバーたちは語ることを拒むのだが(それにしてもちょっとずつボロを出しては、そのボロをさらに拡大化していく形で結局打ち明けていく)、最終的にできた「エリザベスという人」から伺うに、隠すことの必然性がそこまで丁寧に描かれてはいなかった気もする。勝手に察しろという範囲ではあったが。
とはいえ、本作での一番の肝はここじゃないかなと思うところでもある。研究会メンバーにとっては他人にそう簡単に話すべきではない深いところのものであり、不信感からそうしているということでもあるのだが、簡単に言葉にする(=「語る」)ことの拒絶というものがここにはあるのだろうなとは思う。余所者に自分たちのエリザベス像を語ることは侮辱的でもあるものなというか、思い出を蔑ろにしている感じはあるものな。本作において「語り」はつまり人と人とのコミュニケーションとして表現されている。主人公が島に興味を持ち、人に興味を持ち、何度も同じ空間で過ごすことで徐々にその秘密を共有することを許すという構図になっているのである。
そういう意味では、下宿先の女性が読書会メンバーを良く思わず、「あの人たちの言うことを信じるな」と、最初、ミスリードのようなことを言っていたのも、「語り」によるイメージ形成というものを意図した描写だったなと思うわけである。(それに、本作で出来上がったエリザベス像だって取捨選択された像を描いているだけではある。)
上述したように、本作では「意識の流れ」が重要になっているのだけれど、もっと言えば、「語りたいことしか語らない」が全体に通奏低音としてあったとも思う。エリザベスに絡むこと以外にしたって結局はそういうふうに人間たちが描写されている。ただ、だからどうであるっていう肝心のところが、何度も言うように、痒いまま解消されきれていない。すごい面白いことしてるはずなのに妙にもやもやしたまま調理されているというか。

かつて手放したくなかったのに手放すことになった本(※チャールズ・ラムのエッセイ集『Essays Elia』)がたまたまガーンジー島に渡り、たまたま読書会の慌ただしい創立の中でドーシーの手によって選ばれ、本の余白に書き記していた主人公の名前とかつての住所を通じて文通が開始し、読書会のことを知り、彼女は島に導かれ、紆余曲折あって彼女はイギリスからドーシーのいる島に居住して彼と結ばれるわけだが、本作におけるこの一面を素直にロマンスと捉えていいのかも聊か疑問でもある。父親の遺物を掴み取ったように(そしてそれは『自由』や平和への願いでもあったのだけれど)、「手放した」ものから、しかし、居場所を「掴みとる」ということでもあるのだけれど。
ついでに言うと、その球状の置物にしても、主人公の最後の選択の結果にしても、「籠の中の鳥」のイメージも併存している気もするので、なおさらそう思うというか。
戦争中に島の既存社会にとって目に余ることをしていたために今ではつまはじきにされている人、戦争を経て出来上がった偏見から脱することができない人とかに触れられてはいるのだけれど、この島で主人公の人生が取りあえず落ち着くというのにというか、島内をいろいろ彷徨い歩いてもいるのに、「島の中にもいろんな人がいて」という部分が見えなくて、あんまり多くの顔があることが見えない感じがある。割と読書会メンバーに好意的な人が多いのかな?という印象もあるが、これだって拡大されて見えたごく一部の他人たちでしかないからよく分からない。全体的に妙にスモールワールド過ぎ、必要最低限過ぎで、まるで主人公も作中に登場する少女の宝箱みたいに素朴で素敵な物が詰まった小さな世界に落ち着きましたとしているみたいだというか。本人が幸せならそれでいいんだろうけれども。最後に自分の居場所、トランク数個分しか持たない生活をやめる場所として選んだ居場所として、島の中で買った家も、かつてエリザベスが住んでいた邸宅であり、しかもそこは御伽噺に閉じ込められたみたいな世界観を構築している場所でもある。『トムは真夜中の庭で』で閉じた世界としても表現されているようなクローズドガーデンを彷彿とさせる素敵なお庭で、二人を結び付けたラムの著作である『シェイクスピア物語』(※ちなみにこの本を送ることと引き換えにして当初は読書会に関わった)からか『夏の夜の夢』を読んじゃったりもするわけである。この自然豊かな庭の描写は、かつてアメリカ軍人が彼女にテンプレートのように与えていた同じ花束に囲まれていたイギリスの部屋と比較されるものとして機能してもいるのだが(彼女が島のことを書くことを決めたときにこの花束を廊下に全て放り出すのも象徴的なものとして機能している)。

結局、戦争を通してできた(り、女性ということでできていた)自分の心の傷や影と、それも癒えぬうちから平然と広がる資本主義的な表面上は華やかで開明的ぶった社会のあり方と折り合いが付けられず、牧歌的で優しくて同じ痛みを今もなお引き摺り続けている世界に逃げた(「逃げた」というと私が言いたいことでもないのだが、語彙力の問題でうまく表現できず)感じがするというか。「読書」という点においたって、アメリカ軍人はどうやらこれに積極的ではない描写があったりして、それでまたドーシーが彼女にとって魅力的になったりもするのだけれど、なんかそこにしたって妙にドロドロしたものを感じるというか。(作家業は続けるようなので、イギリスを完全に断絶したわけでもないし、ガーンジー島とイギリスの関係性みたいな関係を彼女も続ける感じなんだなっていうまとまり方になるのだけども。)

読書会にしたって、そもそも、ナチスの支配の下で苦しむ中、(食料に限界があるし、人の目を逃れるにも限界があるからだが、)仲のいい者同士でひっそりと集った晩餐会が発端となっていて、その延長として主人公がここに繋がるように、やっぱり本作は意識的に閉じた世界、狭い世界というふうにしている気はする。
好きな描写ではあるのだけれど、戦争下で読書によって現実の悲惨さから距離を取れて癒されてきたのだというくだりなんかも本作が重点を置いてる「繋がる」ことに繋がるんだろうけど、閉じた世界に心地よく引きこもることと紙一重になりかねないというか。物語の世界と逃避はポジティブな意味合いでよく語られるところはあるし、それは私も思うところなのですが、本作においては円いガラスの器の中の鳥のイメージと結びつくような。むずかしい。

晩餐会といえば、ごちそうを食べられることそのものが良いのではなくて、緊急事態下で荒んでいた人々の心が交流を通して繋がり温められることが大事なのだというくだりもやはりキーだったと思う。上述の「語り」とコミュニケーションにも繋がるけれど。まとめると、「人との繋がり」を重視している作品で、エリザベスと結ばれることになるドイツ兵との交流もここが意識されているとは思う。
特にドイツ兵との交流に関しては、エリザベスと関係ないところでたまたまドーシーが彼に牛の出産を手伝ってもらって、一緒に一本の縄を引っ張って子牛の誕生を無事に済ませたところから急速に打ち解けていって一人の人間同士として向き合うようになること、ドイツ兵もそもそも積極的にそれを行う善性を見せたことだとかが人と人とのつながりを描いているなあと思う。
そういう意味では、エリザベスが無理にドイツ兵を読書会に招いた性急さなんかは、やっぱり、ディスコミュニケーション的な描写として働いていたのだろう。
というか、いささか直情型的な交流描写が目立つエリザベスに対して、ドーシーは柔らかいコミュニケーションをし続けていたような気もする。ナチスの奴隷状態で働かされていた人々に手早く自分が食べる分もほとんどない食料を割いて手渡しで与えていたり、逮捕前にエリザベスにパンを分け与えているのにしたって、ドイツ兵とのくだりにしたって、主人公との交流にしたってそうだろう。ドイツ兵の行進に向かって堂々と糾弾して見せたエリザベスのようなところはないので、やや事勿れ主義的なところはあるのかもしれないけれど(とはいえ、彼女の言動は非常に向こう見ず寄りなのだが)。

ディスコミュニケーションといえばそれは主人公にも言えたことで、最初に島を訪れるときに一方的に手紙を送って返事も待たずに現地入りした点などは露骨である。アメリカ軍人も一方的に彼女に接していたけど、彼女のほうだって曖昧な態度で一方的に接していたとも言えるし。下宿先の女性とのやり取りだってコミュニケーションを放棄していると言える(反りが合わないことははっきりしていたのだから無理もないとも言えるが)。何ならラストだってその執筆物を送るついでに伝えろよと思うが、また島に行くことは書かずに再びその状態で船に乗ろうとして、あわや行き違いが発生しそうになったりもしている(※船というモチーフも地続きで「繋がる」イメージなのかなとちょっと思った。アメリカ軍人と帰るときには軍用飛行機だった異物感も、あそこであの飛行機は繋がりを絶つものとして存在していたと思うし。何より、戦争が中心にある作品においては軍用機は特異な存在である)。
本作が「繋がり」を重視していると思われるものであるだけに、最初と最後にこの断絶があるのは引っかかる。そこで悠長に手紙というコミュニケーションを介していたら話が進まないというだけの話でもあろうし、劇的な効果とかの点もあるのだろうけど。エリザベスといい、「言葉より行動」が重要なところで発動しているのは多分重要なんだろうな。なんかふわふわした感じが私はする調理の仕方に落ち着いているが。

イギリスに帰った後に一度エリザベスは何も書けなくなって部屋に引きこもって過ごすようになってしまったときに、大家さんが、「黙っていられるよりも騒音甚だしいタイプライターを打ってもらうほうがマシ」と訴えるシーンがあるけれど、本作ではタイプライターのタッチ音(=書くこと)も「語り」として効果がある。本作では、手紙を書く、メモを書く、島のことを書くなど、「書く」描写も目立つようになっている。彼女が再び書き出したときに島のことをとにかく書き続ける描写は圧巻である。彼女は自分を通して読書会のことを、エリザベスのことを「語る」ことをしているわけで、彼女が新しい語り手として「繋がる」のだから。

それはさておき、私としては主人公の魅力はいまいち分からなかった(上記でも既に匂わせ続けてきたが)。かなり単純に人間としてその良さが分からんというレベルの話をしている。なんなら、表面だけの恋愛で歪んだところがありまくったアメリカ軍人とが一番お似合いだったんではとすら思う。
クソデカハデハデ婚約指輪が島内では悪目立ちすることを察して仕舞った上で過ごしていたのは分かるが、自分に明らかに異性としての好意を持ち始めたドーシーに対して婚約していることを伝えないで自分の恋を優先させてたりしたのなんか、かなり不誠実極まりないと思うのだが。それを打ち明けたら「手出しできない女性」という一線をドーシーの場合は敷いただろうから話が進展しないというのはあるんだろうけれど。こういう身勝手さもかなり表現されたエリザベスに似ているなとも思ったが。自分のそもそもの興味である読書会を深掘りするにあたっても、その好意を利用していたようなものだし、アメリカ軍人に対してだってその好意を利用して自分がしたいことをしている。何なんだおまえって感じだ。
戦中のガーンジー島で島民たちをナチスに売って甘い汁をすすっていた、今はつまはじきにされている男だとか、ナチスに媚びを売ってきた女性たちという存在が本作では触れられているけれど(後者はエリザベスに対する偏見としてしか登場しないが)、それと地続きみたいなキャラクターになってませんかとやや思ったり、そんなもんかとも思ったり。取りあえず言えるのは、好感度はかなり低いキャラクターだったということである。視聴者に好かれるか否かなんてどうでもいいところなんですが。
どこに魅力があったのか教えてくれドーシーって感じなのだけど、それなりに知的で影もあって健全に愛し合う関係が築けそうで、少なくともまあ一緒にいる上ではマトモなので、それでいいってだけなのかもしれない。

とにかく、鑑賞後もずっと人心付かないフワフワした気分を引きずる映画だった。軸足が見えるようで見えないみたいな。素直にあるがまま受け取って爽快みたいな楽しみ方もそりゃできるけど、そこまでアホになりきれんわというかごにょごにょ。
全体的に時間経過の具合が気になるところがあったり、話が飛躍しているような印象を受けるところがままあったりもしたので、原作小説を読んだほうがいいのかもしれない。というか、本作は間違いなく小説向きの内容をしていると思うし、そういうところを映画に昇華しきれていない故に噛み合ってないのではみたいに思った。それなのでなーんか、鑑賞後も鑑賞中もずっと取っ付きづらいフワフワがあったのではないか。映画を見ていて突っ込んできたことどもも小説で解消されそうな気はする。
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