イホウジン

007/ノー・タイム・トゥ・ダイのイホウジンのレビュー・感想・評価

4.0
クレイグ版ボンドの“サーガ”の完結

過去4作を怒涛の勢いでまとめあげる、完結編として満点に近い映画だ。なのでこれ単体でどう観るかというよりは今作を起点に過去のクレイグ版の作品を振り返らざるを得ないし、またその作業によって、従来ほぼ1話完結でまとまっていた007シリーズをボンドを演じる俳優を起点に1つの物語にまとめあげられ、正に“サーガ”が編纂されるのである。そしてこれによって浮かび上がるのが、今回のクレイグ版ボンドの一貫したテーマが「ボンドガール/ウーマン」像の改革というものである。
この15年に及ぶ改革の答えとして提示されたのが、CIAのパロマとボンドの最後の選択だ。
出番はほんの一瞬ながら、パロマの存在感は言わずもがなであろう。ボンドとの色恋に落ちることなくあくまで独立したキャラクターとして描かれ、任務もボンドと対等に遂行することが出来る彼女の背後には、これまでの新しいボンドガール/ウーマン像の果てしない模索を感じられる。ボンドと対等に張り合うという意味では『慰めの報酬』のカミーユや今作にも登場するマドレーヌにも共通するものがあるが、パロマがより革新的だったのは、従来の「劇中1人目のボンドガール/ウーマンの宿命」を自らの力によって打ち砕いた点であろう。出会った相手の生死を握ってきた(そして多くは後者の道を進んでしまう)ボンドであるが、パロマはおそらく初めてボンドの意思や因果に関係なく己の道を切り開いた登場人物と言えよう。そしてこの距離感という問題は、今作最後のボンドの選択にも大きく関わってくる。
つまるところ今回の映画でボンドに起こる最大の変化は、「愛する人のために任務を遂行する」というこれまでボンドガール/ウーマンがしてきた役割を、ボンド自身が引き受けることになったということだ。今作における「劇中2人目のボンドガール/ウーマン」の定義は限りなく曖昧で、前作に引き続きマドレーヌがその立場に該当するという見方もできれば、(ネタバレになるので言及は避けるが)今作で新たに登場する「ガール」をそう定義することもできる。だがもうひとつ可能なのは、その2人をまとめて考える場合だ。この場合今作終盤の展開は、ボンドが007の任務としてラスボスにタイマンに挑むだけでなく、マドレーヌとそのもう1人の「ガール」との関係性を確かなものにするための試練という解釈ができる。つまりこれまでボンドガール/ウーマンの側が担ってきた、愛の試練としてのミッションという性格をボンド自身が引き受けることが、最後のボンドの選択における過去のボンド映画のお約束からの逸脱の大きな要因になっているのである。
そしてこれをもって、旧来の「ボンドとボンドガール/ウーマン」の関係性は根本的に革命される。単に女性の活躍を描くという表面的な改革から、ボンドの女性に対する意識をシリーズを通して一貫して描き、そして今作でその苦しさに対する1つの答えを提示したことで、かつての交換可能性のあるボンドガール/ウーマンの姿は完全に物語から消え去ったと言えよう。

映画単体としても、細かいところが気になりつつも前作・前々作に劣らない出来だ。サム・メンデス以来の美しい映像と重厚なストーリーと主題歌を継承しつつも、『ドクター・ノオ』や『二度死ぬ』などからの引用もあちこちに散見され、前述のような決定的な逸脱とボンドの原点回帰が同時に達成されるという面白さもある。クレイグ版の過去作の要素も散りばめられ、まさに1つのサーガの終わりを予感させるような内容であった。アクションもボンドの老いを感じられないほどにてんこ盛りで、特に終盤の階段での長回しは圧巻としか言いようがなかった(個人的には『スカイフォール』の生家爆発の映像に匹敵するかっこよさだと感じる)。

少し気になるのは前作『スペクター』との繋ぎ方の悪さだ。当然前作よりキャストは続投し、物語も完全に接続されるものとして描かれたが、前回あれだけボンドを苦しめてきたスペクターの扱いがあまりにぞんざいだったように思える。

個人的なクレイグ版ボンド順位付け
1:『スカイフォール』→単体の映画としてはやはり完成度が抜群である。
2:今作→物語の総まとめとしては見事だが、単体では観づらい。
3:『カジノ・ロワイヤル』→クレイグ版の方向性を定めたヴェスパーに感謝。
4:『慰めの報酬』→カミーユはいいが、それ以外思い出せない。
同率4:『スペクター』→娯楽映画としての007は本来この程度のものかと。
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