シゲーニョ

007/ノー・タイム・トゥ・ダイのシゲーニョのレビュー・感想・評価

2.0
前作「スペクター(15年)」公開直前、ダニエル・クレイグの「再びボンド映画に出演するなら、手首を切る方がマシだ」という発言があったので、最新作のタイトルが「ノー・タイム・トゥ・ダイ(=死んでる場合じゃない)」に決定した時には、先の発言に対するクレイグの自虐ネタなのか、あるいは製作サイドのノリツッコミなのか、ずいぶんと意味深な題名だな・・・(笑)と感心したものである。

ダニエル・クレイグのフィルモグラフィを俯瞰で見ると、「愛の悪魔/フランシス・ベーコンの歪んだ肖像(98年)」に代表されるように、外見の逞しさとは裏腹に不安定な内面を持つ破滅的な男がハマリ役なのだろう。
そんな彼を見込んで6代目に据えた製作スタッフは、毎回、ボンドを肉体だけでなく精神的にも非常に困難な状況にさらし、その内面、感情の大きなうねりを表現してきた。

こういったボンドを心理的に掘り下げていくアプローチは、シリーズを活性化させた意味では成功だったと思う。
クレイグ演じるボンドはこれ迄のクールなスーパーマンでは無くなり、ボンドが心身両面で経験することを観客に伝えることで、感情移入しやすい、血の通った「人間らしい」キャラクターになった。

だが、ここで注意すべきなのは、クレイグ版ボンドに、本来ボンドの持つ「陽性」のイメージが一向に見えない点である。

多少のユーモアを加え、ボンドが深刻に考え過ぎない配慮も若干見受けられたが、タフで軽妙洒脱な先代のボンド達を見続けてきた自分としては、延々と続くクレイグ版ボンドのキャラクターとしての「息苦しさ」は、正直、許容範囲を超えるものだった。

クレイグ版2作目の「慰めの報酬(08年)」では、前作「カジノ・ロワイヤル(06年)」で初めて真剣に愛した人に自殺され、不眠症に陥るなど、ダウナーな雰囲気が其処彼処に漂っているため、一見、ボンドが世界を華麗に飛び回っているようで、その実、敵の策略に右往左往しているように思えてしまう。

スクリーンに映し出されるクレイグの顔のアップは、概ね眉間にシワを寄せている「辛気くさい」表情ばかりだ。

そして、自分の生家がクライマックスの舞台となる第3弾「スカイフォール(12年)」では、ジュディ・デンチ演じるMを以前にも増して前面に押し出し「母親についての物語」としたことを併せると、苦痛から逃れるための胎内回帰願望、そのメタファーを描いているように感じてしまった。

自分のような旧世代からすれば、「ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリー」というイメージを簡単に拭い去ることはキビしい。
シリーズ初っ端で「決定版となる役者」が現れてしまったことが、その理由である。
さらに付け加えれば、クレイグにも初代ボンドのコネリーを思わせる荒削りさが感じるが、コネリーのボンドは時折イタズラっぽい少年のような笑顔を見せる。このコネリー特有の持ち味が、ボンドというキャラクターが持つ無遠慮でちょっと粗暴なところを上手く緩和させていると思う。

もちろん、このシリーズが第1作から60年という長き年月を経た今日でさえ、常にアクション・エンターテインメントの上位に立っている成因は、自分なりに理解しているつもりだ。

007のようなスーパーヒーローものとは、映画オリジナルは元より小説やコミックの映像化においても、何十年もの長きにわたり、その時々の社会情勢や人々の意識に合わせて、その姿を変えてきた。
そうやって時代に合わせて変化してきたからこそ、同じキャラクターが今日まで命脈を保ってきたのだろう。

つまり、スーパーヒーローというのはその時代に合わせて違う性格を持つのが当然であり、どれが正しいということはどこにもないのだ。

コネリー以降、成熟した男として描かれてきたボンドだったが、本作に至るまでのクレイグ版4作は、ボンドの内面に分け入り、人間の「苦悩と成長」というドラマに重きを置いた、地に足のついた作品だった。

しかし、この一聞すると耳障りがいい「成長」という言葉こそが、実は問題なのである。

成長する姿を描くということは、同時に明確な時間軸を持つことであり、いづれは使命を果たして引退するか、或いは老いて最終的に死ぬことを描かなくてはならない。某雑誌で中野貴雄氏が指摘しているように、「苦悩し人間的に成長するボンド」とは「死に向かって突き進むボンド」なのである。

ボンドの敵となる悪党たちは、現実の世界情勢を見ても完全に絶えることはないだろう。だからこそ、半世紀以上果てしなき戦いを自覚しながら続けてきたのが、ジェームズ・ボンドという人物なのに、その「死」をもって幕引きとなるシリーズ第25作目「ノー・タイム・トゥ・ダイ(21年)」に、永らく愛し続けたファンが少なからず困惑してしまうのは不自然では無いだろう。

噂によれば、クレイグは「慰めの報酬」の頃から度々演出に口を出すようになり、終ぞ「スペクター」からは製作補に名を連ね、脚本からキャスティング、衣装まで広範囲に渡って自身の主演作をコントロールできるパワーを持ってしまった。
そして、シリーズ創始者の一人、父アルバート・R・ブロッコリ亡き後、初めて自分の意思でクレイグをボンド役に推した娘バーバラからすれば、足掛け15年ボンドを演じたシリーズ引退作を「感動的なフィナーレで締め括りたい」という、半ばエゴ丸出しのクレイグの希望を無下にする事など決してできなかったのだろう。

だが・・・「ダイ・アナザー・デイ(02年)」公開時、次作で「ボンドを死なせたい」と勝手なことを考え、自分のキャリアとボンドをシンクロして伝説化しようと思っていたブロスナンのアイデアを、呆れた物言いとして速攻で(!!)バーバラが却下し、契約を更新しなかった事実を、今更忘れろと言われても、それは無理な話だ(笑)。

冷静になって考えれば、2001年9月11日に起きた同時多発テロを受けて、「ブロスナン演じるボンドのような軽いタッチで、今後007は作れない」とバーバラが判断したことには同意できる。

しかしながら、本作「ノー・タイム・トゥ・ダイ」でのボンドのキャラクターの変容ぶりを受け入れることは、到底不可能だ。

序盤からクレイグ版ボンドの総決算と呼べるほどの迫真のアクションと、シリーズが本来持つウイットに富んだジョークを上手く織り交ぜつつ、前作「スペクター」で饒舌に思えたオマージュも分かる人には分かる程度で物語の流れを寸断することなく、中盤辺りまでイイ感じで進んできたのに、ノルウェーのセーフハウスあたりから、まるでメロドラマかホームドラマのような様相に一転してしまう。

凡そ5年ぶりにマドレーヌと二人きりになって、狼狽えたのか「君を何も知らない...でもこれだけは言える...君を愛している」と最愛の女性の前で言い淀んだり、マドレーヌの娘マチルドのためにリンゴを薄切りにしてあげて「おいしい?」と目尻を下げるボンドの姿なんて正直見たくもなかったし、いくら父性愛に目覚めたとしても、額を床に擦りつけてまで土下座するボンドなど、これまでの「ボンド神話」を破壊する許されない行為だ。

ジェームズ・ボンドは今も昔も、男性として手の届かぬ永遠の理想郷であって、その永遠性を獲得するため家庭生活を描くことは一切無かった。
イアン・フレミングも「女王陛下の007」執筆中、トレーシーとの結婚生活を描くかどうか悩み、独身探偵フィリップ・マーロウを世に送り出したレイモンド・チャンドラーに相談した結果、トレーシーを殺してしまう結末を選んだのである。

生前、アルバート・R・ブロッコリは娘のバーバラに「迷ったらフレミングの原作に帰れ」と助言していたそうが、今回よりによって原作から取り入れたのが、小説「二度死ぬ」でプロフェルドとの死闘の末、記憶を失ったボンドが海女と恋に落ち子供を身篭らせてしまうエピソード。原作を知るファンからすれば絶対に映像化NGと思っていたものだ。

きっと天国のお父さんは、本作の結末含めて「ヤレヤレ、やりやがったな・・・」と草葉の陰で呆れ返っているだろう。



最後に・・・

本作はこれまでのシリーズ通り、エンドクレジットに「James Bond will Return」の文字が映し出されて終焉となる。
クレイグの跡を継ぐ役者が今現在、誰になるのか分からないが、007シリーズはまだまだ続く。

また完全にイチから仕切り直して、今度は007になるまでの「真の誕生譚」とするのか。
或いは「慰めの報酬」で、MI6の古株ルネ・マティスに向かって、ボンドが「本当の名前はマティスではないな」と言及していたように、「名前」など組織から与えられた「コードネーム」に過ぎないとしたら、ジェームズ・ボンドの名を語った全く別のキャラクターが次回作に登場しても不思議ではない。

いきなりの例えで恐縮だが、「ローガン(17年)」で老いと死という勝ち目の無い戦いに敗れながら次世代に希望を託したウルヴァリンや、「アベンジャーズ/エンドゲーム(19年)」で最大の自己犠牲を払い世界を救ったアイアンマンも、この先、何年後かに銀幕の世界に戻ってくる可能性はゼロではない。

マーベルやDCといったコミックジャンルに於いて特徴的なことだが、原作のヒーローたちは長年続くコミックのテコ入れやライターの交代などを理由に、一度命を落としても、暫くするとシレッと復活することが少なくない。

映画版のバットマンが「ダークナイト・ライジング(12年)」で引退(=死)を示唆したにも関わらず、役者・設定等を変えて「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生(16年)」で、昔の事など素知らぬ顔で復活を果たしたように、上述の事情を知る観客からすれば、「コミックの再現」としてすんなり容認できてしまうのだろう。

但し007シリーズには、演じる俳優が交代しても同一人物である、というルールが確実にあった。

「女王陛下の007(69年)」では、救ったトレーシーにお礼も言われず逃げられたレーゼンビーが「アイツ(=コネリー)の時はこんなことは無かった」と愚痴を言うし、ムーアのボンド初お目見えとなった「死ぬのは奴らだ(73年)」では、ボンドとベッドで一戦を交えた女性エージェントが「人が代わってもすることは同じね」と言い放ったりする。
これらは楽屋的ジョークであると同時に、「顔が変わっても同じ人物だからヨロシク!」という製作者からのメッセージだったのである。

クレイグ版ボンドのスタートは「00(ダブルオー)」昇格後、その初任務を描いた、これまでのシリーズの連続性を断ち切る、まさに「リブード」だった。
しかし長年のファンからしてみれば、例えば「カジノ・ロワイヤル」の後に「ドクター・ノオ」へと繋がるとか、「スカイフォール」の後は「ゴールドフィンガー」に続くとか、描く時代性は別にしても、先代のボンド達とちゃんとリンクしていると信じて疑わず、勝手な思いを膨らませていたのである。

だからこそコミック映画のキャラクターに倣って、「死」という重いドラマを真面目に捉えることが無くなってしまうようなことを、007シリーズの世界に持ち込むべきなのか、真剣に悩んでしまう。

第1作「ドクター・ノオ(62年)」以来、軽いSF嗜好が常にシリーズの特徴となっているが、それらは空想世界を舞台にしたお伽話ではなく、あくまでも現実に即し、荒唐無稽と思われる寸前ギリギリのラインでとどまってきた。

007はマーベルやDCのようなファンタジーの世界ではないのだ・・・。