ぱんだまん

少女は夜明けに夢をみる/ 夜明けの夢のぱんだまんのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

この映画は、イランにある少女更生施設が舞台で、罪を犯した10代の少女達が過ごす日々を収めたドキュメンタリー映画である。この映画を通して感じたことは、彼女達はそれぞれ、クスリや窃盗、売春に殺人など様々な罪を犯しているものの、皆一様に家庭環境に問題を抱えている点だ。彼女達は、父親が薬物中毒者であったり、母親が虐待をしていたり、兄弟姉妹が犯罪者であったりと、家族が刑務所に入っているのが普通な程、深刻な問題を有する家庭に育ってきている。そういった話で共感し合うとこぼすほどである。それ故に、彼女達の犯罪行為が、一概に彼女達だけの責任であるとは言えない状況が見えてくる。彼女達の一人がインタビューに対しこのような返答をしていた。「周りが皆やっているから、私もそれに合わせるしかなかった」と。この発言は正に本質をついている気がする。彼女達達は、罪を犯して過ごす他に生き方を知らないのだ。周囲の環境が彼女達にそうさせている、彼女達を毒している、そう考えることも出来る。

また、こんな返答も見られた。「立派に育てられないのにどうして産むの?」、「産むのは簡単だけど、育てるのは大変だから」と。この吐露は、レバノン映画『存在のない子供たち』における核となる大きな命題としても見られたが、親達の無責任な育児放棄がイランでも深刻であることが、この発言を通して知れる。産むだけ産んで、後は自分のしたい様に。彼女達はそうした環境の中に生きてきたある意味での被害者なのではないか。彼女達の一人で恋人をもつ少女が、彼女達の何人かに子供を産むかどうか尋ねられるシーンがある。そこでその少女はこう答える。「泥棒の子は、盗んだ食べ物で育つの」と。これも彼女達の家庭環境を省みた発言ととれる。彼女達は、選ぶことのできない'家庭'という、一番身近な場に苦しんできた。本来ならば、そこが最も子供の成長できる場所であるはずなのに、彼女達には負担や苦痛しか与えてこなかった。社会の最小単位である家庭で傷ついた彼女達には、安らげる場所がなかったのかもしれない。

こうして、'普通'ではない'異常'な存在となり、罪を犯して更生施設に入れられた少女達。だからこそ、'異常'な彼女達は、共感し合える友のような存在がいる更生施設から出たくないと主張する。そこが彼女達にとっての唯一の居場所だからだ。聖職者のような男性が施設にやって来て、少女達に説教をする場面がある。神に祈りを捧げ終わり、その男性が「今日は人権について話す」と言うと、彼女達は「どうして女性は男性よりも罪が重くなるのか」「どうして女性は男性と違い、共犯することで罪に問われるのか」「どうして父親は子を殺しても許されるのに、子(=娘である私)が父親を殺すことは罪になるのか」と矢継ぎ早に質問する。「祈ることはやめたわ」と吐露する彼女達にとっては、イスラーム教とジェンダーの問題についても純粋に疑問を持つ。彼女達にとってそれは死活問題であるし、まともな教育もおそらく受けていないだろうから、イスラーム教の教えもよく分からないのだろう。ただ皆がすることに従ってきた。だが、それ故に自分が生きづらくなっていることに気づき、その束縛から逃れたいとも思っている。彼女達の一人が夢について聞かれた時にこう呟くシーンが印象的である。「私の夢は死ぬこと」と。ここまでのことを言わせてしまう社会に憤りを覚えつつも、その社会自身も、歴史や伝統や固定観念やイデオロギーに縛られ、もうどうしようもなくなっている気もする。

何が間違っていて何が正しいのか。そもそも正邪の差異もないのかもしれない。もちろん犯罪は許されない行為であることは明白であるし、犯罪者である彼女達を擁護する気は毛頭ない。しかし、彼女達にとっては罪を犯すことが生きることであり、'普通'の暮らしは「夜明け」なのだ。明けない夜を過ごしてきた彼女達の「夢」が、"starless dreams"であり続けた彼女達の理想が、いつか叶う日は来るのか。劇中では、「私の夢は死ぬこと」と呟いていた少女が、笑顔で「私の夢は生きること」と言い更生施設を後にするなど、何人かの少女達が更生施設を出ていく様子が見られるが、その彼女達がもう二度と施設には戻ってこないのだ、という保証は何処にもない。むしろ以前と同じように罪を犯したり、最悪の場合道端で死んでしまうことだって考えられなくはない。彼女達だけでなく、同じような少年少女がきっと溢れかえっているのだろう。実際にテヘランに滞在していた間にも、路上生活者や乞食に何度も遭遇した。電車では物売りの少年が金をせびってきたこともあった。彼らがどのような生活を送っているのかは、この映画を観たあとには、想像に難くない。貧困はどこの国にも一定数あることだが、この映画は、イラン社会だからこそ生まれる、あの少女達のような存在を浮き彫りにしてくれたような気がする。

しかし一個人にはどうすることも出来ないのが現状であり、今もイランでは彼女達のような境遇に置かれる少年少女がまた施設に入れられているのかもしれない。テヘラン滞在中に、友人が電車の中の物売りから商品を買おうと言い出したことがあった。物売りに同情し、耐えきれなかったのだろう。共感しつつも、友人を止めた覚えがある。それは私がケチだったからではなく、そんなことをしても何の解決にもならないと思ったからだ。彼から商品を買うことは簡単だが、その先に何があるのか。今でも、買えばよかったかと後悔することもあるが、あの決断は間違っていなかったとも思う。蚊帳の外から見つめることの出来ないもどかしさが苦しいが、この映画をきっかけに、もう一度イランを見つめ直してみたいと思う。
ぱんだまん

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