QTaka

少女は夜明けに夢をみる/ 夜明けの夢のQTakaのレビュー・感想・評価

4.0
彼女達に負うべき罪など始めから無かったのだと思う。
スクリーンに映し出された姿は、”つみびと”ではなく、むしろ天使たちだった。
そして、彼女達の姿を通して見えてくる社会のありようがあまりにも辛すぎた。
.
イランの少女更生施設。
そこは、収容され、更生のために隔絶された場所。
そこに見られる少女達の姿に、果たして罪を負わせることができるのだろうか?
少女達は、互いの生い立ちを共有し、そこに自分の姿を重ね、慰め支え合う。
ここにいる彼女達だから、そこに互いの姿をはっきりと見つめられるのだろう。
そして、そういう互いを本当に抱きしめられる。
そこにあるのは、笑い、歌い、ふざけ合い、語り合う、天使たちの姿だ。
ここに居る彼女達に本当の罪はない。
.
収容されている少女達の姿を、一人ひとり追うようにカメラは捉えている。
そこに浮かび上がる彼女達のここに至る辛い背景は、家族を含む生活環境にある。
家族の中に有る薬物使用、虐待、暴力、さらに性暴力。
崩壊した家庭に、形骸化した宗教観念。
本来、生きるためのよりどころで有る神(イスラーム)の教えすら、この社会では男尊女卑の象徴でしかない。
そんな彼女達の姿を追いながら、時に笑顔で、時に笑い、歌い、ふざけあう様子にホッとする場面が多く有る。
この施設の中では、互いに心を開き、打ち解けあい、相手を思いやり、支え合っていることに気づく。
ここは、彼女達にとって、収容され、閉じ込められた空間ではなく、むしろシェルターなのではないかと思った。
同様の境遇に育ち、ここへ集まってきた仲間の姿に、「自分一人ではない」という確信を持つのではないか。
それは、彼女達に、この社会の矛盾や歪みを明らかにさせているのではないか。
しかし、再びこの施設を出て、家族のもとへ帰っても、そこに安住の地が有るとは保証されてはいない。
散々、苦しい思いをしてきた家族のもとから逃れるようにこの施設へ入った者さえいる。
彼女達に、ここを出たのちに、明るい未来が見える日が来るのだろうか?
.
幾人もの少女達の中に、乳飲み子を連れた少女が居た。
その子供を、少女達はみんなで迎え、みんなで見守った。
みんなでその子を抱き抱え、有る少女は涙をこぼした。
その涙の意味は…、 他の少女がその子を慰めた。
そこには、彼女達に共通する思いが溢れているのだろう。
それは、彼女達だから共有し、支えられる繋がりが有るのだろう。
生きる事の辛さを突きつけられた少女達が、生きようとする事の難しさは計り知れない。
「生きる」という当たり前のことに、絶望してしまった彼女達を、社会はどう受け止めることができるのだろう。
彼女達を救うのは、社会の使命だろうと思う。
彼女達を追い詰めたのも、社会なのだから。
.
”社会”が負っている責任というものがある。
それは、一人ひとりが生きるための”社会”を保つことだと思う。
それは、一人ひとりの力で支えられている”社会”を一人ひとりが意識することだと思う。
その責任を放棄すると、とたんに崩れ出し、人々が生き辛い”社会”に変貌してしまう。
この映画は、その末の崩壊した”社会”を少女達の姿を通して見せている。
この映画の中の出来事は、まさに今この時代の出来事だ。
そして、それは、はるか彼方の見知らぬ地の出来事として棄て置いていいことではない。
やがては、この国のことになるのかもしれないのだから。
あるいは、既にこの国にも、綻びや、壊れてしまった”社会”の一端があるのかもしれない。
気づかないだけなのかもしれない。あるいは、見て見ぬ振りをしているだけなのかもしれない。
.
昨今、人々の生き方、特に”生き辛さ”を描いた映画と出会うことが多い。
中東を描いた映画では、『存在のない子供たち』があった。そこでは、大人の無関心の犠牲となる子供の姿が描かれ、衝撃を覚えた。子供は、育てることもまともにできないのに自分を生んだ親を告発している。
同様の事を、本作の中で少女が訴えていた。
ここでは、子供は、親からの虐待を受けて生まれてきているのだ。
生まれたその時から、その社会の中で翻弄され、虐げられてきた。
そんな彼女達を描いた映画は、現代社会を告発しているのだと思った。
QTaka

QTaka