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ボイス・オブ・ムーンのKKMXのレビュー・感想・評価

ボイス・オブ・ムーン(1990年製作の映画)
3.5
 本作はフェリーニの遺作とのこと。抽象度の高いガーエーでした。
 ストーリーらいしストーリーはなく、断片的なシーンの積み重ねと、対話になっていないこれまた断片的な会話で構成されているため、とにかく観づらい。集中力を維持することも難しく、やっかいな作品でした。
 かと言ってつまらないわけでもなく、突然本質的なセリフが出てくるので油断できません。しかし、それらには文脈がないので、大事なキーワードなんだけど記憶に残らない。

 そんな感じで1時間半ヒーコラ言って観たところ、終盤30分はかなりエキサイティングな展開が。タルコフスキーの『ノスタルジア』に通じるテーマが語られていたと感じました。


 こんなヘンチクリンなガーエーにネタバレもクソもないと思うので記述しますが、終盤にある男たちが月を捕らえます。
 月を確保したとのことでメディアが集まってきてゴタクを並べます。枢機卿は月には尋ねることはない、すべては明らかだ、と語ります。
 しかし、ここで観客の中で、「すべてが明らかであるわけがない!」と異を唱える男が現れ、銃を発射します。広場はざわつき、男は捕らえられます。

 このくだりは、『ノスタルジア』の狂人ドメニコの演説シーンに近いと思いました(ただし本作はドメニコの演説内容…1+1=1即ち二項対立の融合のスピリットまでには至っていない)。思い上がった物質人に対する精神人からの批判。信仰心を失った枢機卿の傲慢と男が押さえつけられるシーンは、ドメニコの焼死を連想しました。
 また、本作は狂人や老人などマイノリティが多く描かれ、モブとして普通人が描かれていました。これもなんとなくですが、『病める精神人=本質 vs 健全な物質人=世界を悪化させる悪』的な二項対立をイメージさせられました。
 また、最後に月との会話で、月が「コマーシャル」と荒井注みたいなことを言いますが、これも結構な物質主義批判だと感じました。

 『甘い生活』の頃は虚無主義への皮肉と危機意識で留まってましたが、本作ではより危機感が高まり、メッセージ性が強くなっているように思いました。
 『甘い生活』の場合は、虚無や傲慢はあくまでも本人の問題とされていた印象を受けます。虚無から抜けられない点を鑑みれば、社会的な要因も大きいでしょうが、デメリットはあくまで個人レベル。なのでフェリーニも、「ガハハ」と構えていられました。フェリーニの『人間だものガハハ主義』は鷹揚な肯定感が魅力ではありますが、個で完結しているためやや無責任とも言えます。
 しかし本作では、明らかに虚無や傲慢こそが世界を蝕んで負の方向に進めてしまう重大な問題として捉えられています。そう考えると、フェリーニは人間を描きましたが、タルコフスキーは世界を描いたように感じます。ついにフェリーニも晩年になってタルちゃんの領域に足を踏み入れたように感じました。


 あと、人と人との深いつながりへの賛歌も感じられました。精神疾患の自称市長と、その妻(?)とのダンスシーンは、なんとも言えない歴史を重ねた人と人との関係性の豊かさを感じました。これはフェリーニと妻ジュリエッタの恩讐を越えた関係を連想しました。美しかったし、感動しました。


 フェリーニも老いて、往年のキレ味はなくなったと感じます。衰えてきたせいか必要以上に難解な作品となったように思います。『アマルコルド』くらいの時期ならば、同じテーマでもっと求心力のあるガーエーを作ったはずです。
 一方で、これまでの『人間だからいいじゃないか、ガハハ!』みたいな割とアバウトな肯定主義も鳴りを潜めて、世界の地下水脈にアクセスしようとする深みも感じられます。解を求めなかったように感じるフェリーニですが、解を追求しようとしている印象を受けました。『思い出のほうが今よりいい、しかし両方とも同じだ』『炎は消えたらどこに行くのか』等、見えない現実をこれまで以上に意識している様子も窺えました。

 人間には解は必要ないと思いますが、世界には解が不要とはさすがに言えないですからね〜。ひとりの人間の滅亡と世界の滅亡では問題の大きさが違いすぎます。世界に視点が向かうと、どうしてもタル的なテーマを語る必要が出てくるのかもしれません。


 本作がラストになってしまったのは惜しいようにも思います。しかし、この次があっても、同様に衰えが窺える作品を撮るのでは、とも想像します。
 中途半端な遺作となりましたが、それもフェリーニ臭くて良いのでは、と思いました。人間だもの、ガハハ!



*鑑賞予定だった『カビリアの夜』のチケットが取れなかったため、配信で観ることができる本作を鑑賞しました。フェリーニ祭りのチケットはよくハケてますね!
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