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悪魔祓い、聖なる儀式のsghrytのレビュー・感想・評価

悪魔祓い、聖なる儀式(2016年製作の映画)
4.0
リアル『コンスタンティン』。超絶面白い。思わず身震いするシーンもあれば、抱腹絶倒の爆笑シーンもある。

前近代的なコルプス・クリスティアヌム(キリスト教共同体)の一端に触れることができる。コルプス・クリスティアヌムの中において悪魔は実在する。当たり前のことだ。その中では神(父・子・聖霊)やマリア(聖母)が存在するんだから、サタン(悪魔)も存在するに決まっているじゃないか。

だだコルプス・クリスティアヌムの外部から、それらの存在を経験することはできない。だから近代人(特に非キリスト教徒)からすると、悪魔は存在しないように見える。悪魔憑きは近代的な世界観、具体的には近代的な方法、たとえば精神分析や心理学で説明したくなる。

しかし、そもそも悪魔は近代的な方法では説明がつかない領域に見出されていることを見落としてはならない。そのことは男性が「俺だって信じられない。だが、そいつはいるんだ」と戸惑ったり、女性が現代医学では説明のつかない症状に苦しんでいると告白するシーンだったり、欧米の各教区に悪魔払い師が増員されているという仏ルモンド紙の報道が掲載されたエンドロールが示唆している。

仮に近代的な立場をとったとしても、人間の知性が不完全である以上、形而上学を否定することはできない。理性だけでパズルは完成しないのだ。パズルを完成させるためには、ピースを揃えなければならない。しかし理性だけではピースが揃わない。結局、ピースが欠けたまま耐え続けるか、その部分を強引に埋めるか、どちらかを選ぶしかない。それだったら欠けたピースを信仰で埋めてもいいじゃないか。それが人情というものだ。

(余談ですがね、そもそも宗教は世界を合理的に説明して、それを納得させる役割を持っているわけですよ。たとえば神(超越的存在)抜きに世界が存在することを説明することは、人間の理性の構造上原理的に不可能だ。それにもかかわらず厄介なことにこうして現に世界が存在しちゃってるから、この非合理な世界を説明かつ納得するために超越的存在が要請されるわけだ。神の存在は論理必然的に導き出されるものであって、むしろ合理的な存在なのである(ここで非合理と合理がイコールに陥る)。神は非合理的だと安易に考えて宗教を侮る人が多いことには、ほとほとうんざりさせられるよね。そんなに簡単な話じゃねえんだよ。)

つくづく思い知らされるのは、われわれ日本人は西洋人とは違いすぎるということだ。民族が異なる、母語が異なるということは、お互いに全く異なる世界に住んでいるということだ。もはや別の生き物だと言ってもいいくらいだ。それぞれの世界間をどこまで行き来できるのか、相互理解は成り立つのか、はなはだ怪しいもんだ。もちろんこの問題は究極的には個人と個人の問題にまで行き当たるわけだが。

まあひとつ言えるのは、東洋と西洋では悪の概念が根本的に異なるということだね。たとえば仏教の悪は無明(無常が悪じゃないのは面白い)、儒教の悪は紊乱、神道の悪は穢れだが、それらは基本的には機能不全という意味にすぎない(何だったら日本語の「悪」ってもともと「すげえ」って意味だし)。それに対してキリスト教の悪は悪魔の存在そのものである(カトリックとプロテスタントで違いはあるが)。東洋の悪に実体はないが、西洋の悪には実体がある。それは具体的な力なのだ。

ショックだったのは、悪魔払いは一度で済まないということだ。悪魔を追い出しても魂に入り込む隙が限り悪魔はまた「我が家」に舞い戻ってきてしまう。それだから悪もまた超越的な存在である。

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」(マタイ12:43.44.45)

「あの子には悪霊がとりついていた」、エリは密やかな声で打ち明けるように言った。「そいつはつかず離れずユズの背後にいて、その首筋に冷たい息を吐きかけながら、じわじわとあの子を追い詰めていった。そう考える以外にいろんなことの説明がつかないんだ。君のことにしても、拒食症のことにしても、浜松でのことにしてもね。私としてはそんなことは言葉にしたくなかった。いったん口にしたら、それが実在するものになってしまいそうだったから。だからこれまでずっと私ひとりの胸のうちにしまい込んできた。このまま死ぬまで黙っているつもりだった。でも今ここで思い切って言葉にしてしまうよ。この先、私たちが会うことはもうないかもしれないからね。君はたぶんそのことをしっかり知っておかなくてはならない。それは悪霊だった。あるいは悪霊に近い何かだった。そしてユズにはとうとうそいつを振り払うことができなかった」(村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)
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