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カランコエの花のSQURのレビュー・感想・評価

カランコエの花(2016年製作の映画)
4.0
「考えて人を好きになる人はいないよね」というめっちゃくちゃグロテスクな「LGBT」についての授業から映画が始まり(いるだろうよ!)、知識もなく理解もない教師がそれでも指導することを求められる学校現場の大変さをおもった。
映画の構成としては『明日、君がいない』を思い起こさせるような形で、クラスが「LGBT」探しをする様子が移される一方で、映画としても誰が当事者であるかを明かさないため、観客もこの人かな?と思いながら観ることになり、そこで観客自身にも偏見があることを指摘する、といった側面があると言わざるを得ない。映画は基本的に全ての映像に必ず"意味がある"し、「この映像は何を意図してるんだ?」と思いながら観るメディアなので、そういった映画に普遍的な構造を利用して、観客の偏見を指摘するのはかなりズルいと思う。
ただ『明日、君がいない』のように最後までそれを引っ張るのではなく、途中で「観客が勘ぐらなくてはいけない時間」は終わる。そこからの流れの中で、映画として良いな、と思えるような演出は多い。例えば、バス停でひぐらし(かな?)の鳴き声が聞こえるシーンや、エンドクレジット前の音が消えていく演出や、暗転した画面で会話だけが流れるシーンなどは、「映像として豊か」だったと思う。また、安易なハッピーエンドにならなかったのも良かった。あのような最悪な教師と最悪な学校という環境の中で、良い結末などなりようもない。と言って、過激でわかりやすい"罰"がくだるわけでもなく、主人公が静かに自身の犯した罪の深さに打ち震えるラストシーンは印象深い(これは主人公の優しさや戸惑いを描いた映画ではなく、罪を描いた映画ですよ。言うまでもないとは思うけど…)。とても良い映画だった。

と言いたいところだったが、そもそも良い映画だったとはなんなんだろうか? それは私の、あるいはあなたの、中に初めからあった「良い映画」の判断基準に合致したということ以上の意味を持たない。映画は良くなくてはいけないのか?良い映画、悪い映画とジャッジするとき。ポリティカルに正しい映画、間違った映画だとジャッジするとき、私たちはどこの立場に立って、どう言った類の権力を行使しているのか?
上手く思考がまとまらない。
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