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デイアンドナイトのkuuのレビュー・感想・評価

デイアンドナイト(2019年製作の映画)
3.6
『デイアンドナイト』
映倫区分G.
製作年2019年。上映時間134分。

俳優・山田孝之がプロデューサーに専念し、『善と悪はどこからやってくるのか』って高尚なテーマに描いたオリジナルドラマ作品。
空気感から重たく、主要な配役は影のある濃い容姿(男前が多数)の役者やから考えさせられるのをチョイ助長された気もしないではないが。。。

明石幸次は父の自殺で実家へと戻ってきた。
明石の父ちゃんは、大手企業の不正を内部告発したことから自殺にまで追いやられ、家族も崩壊寸前となっていた。
そんな明石に手を差し伸べたのは北村という男だった。
北村は児童養護施設のオーナーとして、父親同然に孤児たちを養いながら、『子どもたちを生かすためなら犯罪もいとわない』という清濁を共存させた道徳観を持っていた。
児童養護施設で生活する少女・奈々は、北村に傾倒していく明石を案じていたが、復讐心が次第に増幅し、明石の中の善悪の境界線が瓦解していく。。。

攻めるねNISSAN。(NISSANは映画とは全く関係nothing)
攻めるね山田孝之。
と同じ事務所に所属する俳優の阿部進之介が企画・原案から携わってて、長編映画に初主演らしいです。
山田孝之は俳優として出演はせず、プロデューサーに専念してるし、脚本にも名を連ねている。
善と悪てのは表裏一体なんかな。
今作品はそないな、彷徨える人間の世界観を表現してくれてました。
しつこいけど攻めるね山田孝之。
邦画の中やと私的ながら良い作品やと思います。

『善』と『悪』ってなんやろなぁと、カントってオッサンの考えを軸に徒然に脇道それて書きますが、ややこしいのは勘弁してくれって方は、すっ飛ばして下さいな🙇‍♂️。

※知ったようなことを書きますが小生も迷える一人ですので、何一つ前へ進めない愚かなモノですので、ご理解の上お読みください😊。

カントは『善』『悪』を、社会的に、また、一般的に正しいとか正しくねぇちゅうことじゃなく、川の水の流れや吹く風に従うかのように、無条件に、あたかも自然の法則に従うことやと云っとんのかと小生は理解してる。
人ってのは誰しも(中には例外は居なくはないやろけど)、幸せになりてぇちゅう欲求を抱いてるものです。
そん中には、名声や富、よりよい社会的地位を得たいちゅう願い含まれてる。
ほんで、特定、不特定は個人的にせよ、誰かによく思われてぇ、好かれたい愛されたいなんて欲求もある。
そう云った思いから行われる正しい行為(ボランティア活動、手助け)には見
返りちゅう無形・有形(これも個人的に違いがあるにせよ)対価をうけたいちゅう目的が根底にある。
カントはそう云った見返りを求めへん行為を『善』と呼んでんのとちゃうかな。
仏教でも無所得なき故に心にわだかまりがない。
わだかまりがない故に恐怖すらないと、般若心経は説いてる。
以前、小生は、以前『善』てのは己の周りのコミニティ内で、存在するルール規則に適ったものであり、適わなかったものが『悪』やと思ってた。
なぜなら、ルールに適っとらへん人物ちゅうのは、『己のみ』ちゅう自己中心的な態度をとり、周りの人々に迷惑をかける。
ある共同体の中で生活しとるなら、相手に迷惑をかけるちゅうことは、悪い行為と受け取ることができるのでこれが悪であると。
しかし、その己の所属するコミニティもまた、何処かに属してる。
例えば、軍隊編成を例にだすと、個人が兵ならそれらが集まり組となり、班から分隊、そして中隊、大隊、連隊、旅団、師団、軍団、軍、国家、世界、地球、太陽系、銀河系。。。
と己がいまどこに属してるのか。
また、生きていたらAにも属してるがBにも属してるみたいな複数もあり得る。
そないなことを考えたらグルグルと考えが纏まらなくなる。
ただ、そのどないなコミニティにいても、感性界ちゅう現実の世界じゃ人は道徳的であっても、必ずしも幸福を得られるとは限りらへん。
逆にまず幸福を得ようとすると、人は道徳的ではなくなる。
そこで、本来はやはり道徳的であれば幸福を得られるのが望ましいと云える。
それが道徳性と幸福との一致
=最高善と難しく述べる。
せや、道徳性と幸福との完全な一致は感性界では得られる保障はあらへん。
そこで、その完全な一致を目指す無限な進行が考えられる。
この無限な進行をカントは、
『理性的存在者の実在と人格性とが無限に存続すること』と呼び心の不死である。
最高善はこのような心の不死を前提として可能となるとカントは考える。
そしてこないな最高善を成り立たせる世界を生み出すのが神やとされる。
なら人間には理解を越えた問題なんかと云うと、今現在じゃ的確な答えはない。
的確な答えなんて存在しないかもしれへん。
で、先にも書いた、
川の流れに従う水のように、無条件に、あたかも自然の法則に従うことに通じるのちゃうかなぁ。
今までは机上のことを書いてきましたが、経験則で照らして説明するのに知恵はあまり持ち合わせてないけど、
朱に交われば赤くなる。
朱に交わる瞬間、人は嫌な感じが必ず起きる。
胸騒ぎよりもっと直接的な、そないな朱に交わった(己の自然の法則に逆らった)とき人は赤くなっちまう。
善き赤も悪い赤も同じように。
その瞬間を感じれるなら人間には生来の『善』てのは具(そな)わっとるんちゃうかと無知な小生は思う。
そないな感覚を大切に生きたら友達(友達と呼べたのか疑問やけど)は多くが消えたが、その分、悪いこともせず、たまには見知らぬジジババのお節介焼いたりする余裕も出てきた。
直接的な留まるような声を聞いたら、例え必要としてる人が居た非道に映ったととしても近づかない様にしてる。
手を差しのべないのではなく、必要に応じて己側に引き寄せる。
難しいけど。
引き寄せることができぬなら近づかない。
まぁ、こないなんをカントは自然の法則と呼んでないかもしれないが、それを己の大切にしてる人たちのコミニティ、そして、そのコミニティの纏まり。。。
と大きくしていったとこに『善』なるものに、いまよりも近づけ成長できんのやと小生は信じてる。
あくまでも、そこにはストイックな研鑽と精進が付きまとうし挫折ばかりで一歩進んで多くがさがってますが。。。
理想論になっちまった🙇‍♂️。
kuu

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